鳳林寺の宝物

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読み方
意味・いわれなど
作者紹介
備考
愛新覚羅溥傑
鶴舞 愛新覚羅溥傑(1907年4月16日 ~ 1994年2月28日)

愛新覚羅溥儀の実弟。
H31.1.1~3.31 客間
(青島)興庵恵宗
「禅定為屋宅」

為禅明学徒 如水澹主人書
為書にある「禅明」は、鳳林寺四世。

「持戒為平地 禅定為屋宅 能生智慧光 次第得明照」
(持戒を平地となし、禅定を屋宅となし、能く智慧の光を生じて、次第に明照を得)とある
(青島)興庵恵宗(1834~1904)
曹洞宗
石雲院独住5世
焼津林叟院30世
静岡長福寺3世
源昌寺12世
光泰寺18世
H27.6.1~6.15 本堂
R0506 本堂
隠逸林中無栄辱、道義路上無炎涼。

隠逸(いんいつの)林中(りんちゅう)に栄辱(えいじょく)無く、道義(どうぎ)の路上(ろじょう)に炎涼(えんりょう)無し。
「菜根譚」より。

俗世間を離れた生活は、栄光や屈辱と関係無く、道理や正義に則った生活は、燃えたり冷めたりという感情の起伏と関係ない。
つまり、活人は感情が一喜一憂するようなことから離れ、大安心の心で暮らしなさいと言っているのだろう。
言い換えれば、達人の人生は、淡々と暮らすことが最高の暮らし方ということだろう。
(青島)興庵恵宗(1834~1904)
曹洞宗
石雲院独住5世
焼津林叟院30世
静岡長福寺3世
源昌寺12世
光泰寺18世
H26.7.16~7.31 本堂
R2.7~9 新庫裏
(秋野)大忍孝道
煙水(えんすい) 従容録第12則に 「濯足滄浪煙水秋」とある。 (秋野)大忍孝道 (1858(安政5)~1934(昭和9))
 韓大忍。黙照円通禅師。
 静岡の人。文久3年静岡長興寺にて出家し、明治5(1872)年、
伊藤慶道について得度。
 明治13年(1880)浜松天林寺専門支校に入り翌年同支校学監となった。
 同年、師兄加藤玄裔に嗣法し、明治15年、駒込吉祥寺曹洞棟専門本校
に入学する。
 明治19(1886)年卒業し、同年より西有穆山について13年間「正法眼蔵」
を研究する。
 明治22(1889)年静岡天徳寺に入山する。
 明治38(1905)年、永平寺後堂
 明治39(1906)年、永平寺眼蔵会講師
 明治40年(1907)、大洞院に転住
 明治42年曹洞宗大学長
 大正5年可睡斎に転住。
 昭和4年總持寺貫首に就任、昭和9年示寂。世寿77歳
H27.6.16~6.30 本堂
箱根湖畔緑陰繁
幾到軽煙散又存
鶯鳥頻歌三○節
見聞一一別乾坤

昭和己巳夏箱根避暑筆作 萬松山人孝道

昭和己巳は、昭和4(1929)年。
(秋野)大忍孝道 (1858(安政5)~1934(昭和9))
 韓大忍。黙照円通禅師。
 静岡の人。文久3年静岡長興寺にて出家し、明治5(1872)年、
伊藤慶道について得度。
 明治13年(1880)浜松天林寺専門支校に入り翌年同支校学監となった。
 同年、師兄加藤玄裔に嗣法し、明治15年、駒込吉祥寺曹洞棟専門本校
に入学する。
 明治19(1886)年卒業し、同年より西有穆山について13年間「正法眼蔵」
を研究する。
 明治22(1889)年静岡天徳寺に入山する。
 明治38(1905)年、永平寺後堂
 明治39(1906)年、永平寺眼蔵会講師
 明治40年(1907)、大洞院に転住
 明治42年曹洞宗大学長
 大正5年可睡斎に転住。
 昭和4年總持寺貫首に就任、昭和9年示寂。世寿77歳
H27.7 本堂
R04.07~09 客殿
(浅野)大忍哲禅
「寿」 (浅野)大忍哲禅( ~1990)
明治30年愛知県に生まる。
昭和12年大本山総持寺単頭
昭和16年大洞院独住第9世。

能登大本山総持寺祖院西堂
H28.1 本堂
R05.01~03 客殿
(朝比奈)円覚宗源

日々是好日
(にちにちこれこうにち)
(ひびこれこうじつ)

『碧巌録』第六則「雲門十五日」の本則に「雲門垂語云。十五日已前不問汝。十五日已後。道将一句来。自代云。日日是好日」とある。
雲門とは、中国の唐未から五代にかけて活躍された雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師の事。
毎日いい日が続いてけっこうなことだ、などといった浅い意味ではありません。
私達は、今日はよい日だ悪い日だという場合、天気だけでなく、お金が儲かった・損をした、よいことがあった・嫌なことがあったなど、そんなものさしで判断します。
しかし、これは優劣・損得・是非にとらわれた考え方です。
日々是好日とは、そんなこだわり、とらわれをさっぱり捨て切って、その日一日をただありのままに生きる、清々しい境地です。
たとえば、嵐の日であろうと、何か大切なものを失った日であろうと、ただひたすら、ありのままに生きれば、全てが好日こうにちなのです。
禅では、過ぎてしまったことにいつまでもこだわったり、まだ来ぬ明日に期待したりしません。
目前の現実が喜びであろうと、悲しみであろうと、ただ今、この一瞬を精一杯に生きる。
その一瞬一瞬の積み重ねが一日となれば、それは今までにない、素晴らしい一日となるはずです。

寄贈者:青木一枝さま
(朝比奈)円覚宗源(1891(明治24)~1979(昭和54))

臨済宗の僧。
水戸黄門、大岡越前など、時代劇の題字を手がけたことでも知られている。

京都妙心寺などで修行し,鎌倉浄智寺住持をへて
昭和17年円覚寺貫主。
昭和20年円覚寺派管長。
昭和54年8月25日死去。88歳。
R1.6 本堂
伊佐如是
寬心應是酒
(心を寛うするは應に是れ酒なるべし)
杜甫の詩に

花飛有底急  
老去願春遲  
可惜歡娯地  
都非少壯時  
寬心應是酒  
遣興莫過詩  
此意陶潛解  
吾生後汝期  


花の飛ぶこと底(なん)の急か有る
老い去っては春の遲きことを願ふ
惜しむべし歡娯の地
都て少壯の時に非ず
心を寛うするは應に是れ酒なるべし
興を遣るは詩に過ぐるは莫し
此の意陶潛解す
吾が生汝が期に後れり


とある
伊佐如是(1809~1891)
江戸の人。
名は岑満、通称は新次郎、字は樓卿、号を如是と称し、
幕府の徒目付・具足奉行・海軍奉行などを歴任し、
駿府の牧之原開墾に尽力した旗本で、
下田奉行頭取としてアメリカ人ハリスの交渉役を務め、
唐人お吉をハリスに世話した人物として有名である。
亦、漢籍を岡本况齋に、書法を小島成齋に学び、
和歌にも優れた文化人で、
晩年は谷口原付近の子弟に漢学や書を教授し、
優れた能書家でもあり、
幕末三舟(海舟・鐵舟・泥舟)の書の師としても
知られている。
H28.5 本堂
R3.7~9新庫裏
(梅田)快光信隆
行亦禅 坐亦禅 「證道歌」に、

行亦禪坐亦禪、 ぎょうもまたぜん、ざもまたぜん
語默動靜體安然。ごもくどうじょう たいあんねん
縱遇鋒刀常坦坦、たとひほうとうにあふとも つねにたんたん
假饒毒藥也間間 たとひ どくやくもまたかんかん

とある。
歩くことも禅であり、坐することも禅である。語るときも黙するときも動いているときも静かにしているときもその姿は安らかだ。たとえ刀の切っ先を突きつけられても平気である。またたとえ毒薬を盛られても気にしない。


箱裏に「記念 贈 人権擁護推進員 平尾賢明師 平成二年十二月吉日 曹洞宗第一宗務所 所長 大島賢龍 箱書」 とある。

昭和62年~平成2年、鳳林寺第六世賢明和尚が、静岡県第一宗務所人権擁護推進員の役職をさせていただいていた。平成2年12月、当時の宗務所長大島賢龍老師から記念にいただいたもの。

(梅田)快光信隆(1906(明治39)~1996(平成8))
福岡県糸島郡二丈町生、福岡市東林寺梅田隆全に嗣法する。
駒澤大学、九州大学印度哲学科を卒業。
福岡禅覚寺13世、 東林寺18世
昭和57年10月、總持寺独住21世。
H25.9.1~9.15 本堂
R2.11 本堂
永春
酒涼千樹竹花散澐雲

  ○㬢圓永春
永春
静岡市駿河区・圓福寺前住
H26.4.1~4.15 本堂
R04.04 客間
(江川)徹玄辰三
鳥語風声皆仏法 (江川)徹玄辰三(1928~2021)

昭和3年(1928)山梨県生まれ。
昭和28年(1953)山梨県清光寺住職、
昭和46年(1971)愛知県宝泉寺住職
昭和56年(1981)曹洞宗審議院副院長
平成8年(1996)大本山總持寺監院
平成22年(2010)大本山總持寺副貫首
平成23年(2011)4月大本山總持寺貫首
令和3年(2021)9月19日遷化 世寿93歳
R2.5 本堂
雨竹風松皆禅説

(雨竹風松皆説禅)
雨に濡れた竹、風に揺らぐ松など、自然が禅の説法だ、の意。


 曹洞宗の開祖、道元禅師の著書「正法眼蔵」に、「無情説法」の巻があります。「無情」の「情」とは心理作用をもたない植物・鉱物を意味します。つまり「無情説法」とは、植物や鉱物のような心理作用を持たないものも宇宙秩序を説いているという意味です。「無情」こそが宇宙の真理「無常」を説いているのです。
(江川)徹玄辰三(1928~2021)

昭和3年(1928)山梨県生まれ。
昭和28年(1953)山梨県清光寺住職、
昭和46年(1971)愛知県宝泉寺住職
昭和56年(1981)曹洞宗審議院副院長
平成8年(1996)大本山總持寺監院
平成22年(2010)大本山總持寺副貫首
平成23年(2011)4月大本山總持寺貫首
令和3年(2021)9月19日遷化 世寿93歳
H29.6 本堂

花紅柳緑共真如
「花紅柳緑」とは、人が手を加えていない自然のままの美しさのこと。
紅い花と緑の柳ということから、春の美しい景色を言い表す言葉。

花は紅く、柳は緑という自然そのものの姿こそが悟りの境地である。
(江川)徹玄辰三(1928~2021)

昭和3年(1928)山梨県生まれ。
昭和28年(1953)山梨県清光寺住職、
昭和46年(1971)愛知県宝泉寺住職
昭和56年(1981)曹洞宗審議院副院長
平成8年(1996)大本山總持寺監院
平成22年(2010)大本山總持寺副貫首
平成23年(2011)4月大本山總持寺貫首
令和3年(2021)9月19日遷化 世寿93歳
H29.4 本堂
R06.04 本堂
太田晦巌
積雪楼台増壮観 近春鳥雀有和聲

晦巌迂人
山岡鉄舟の詩に
積雪楼台増壮観 近春鳥雀有和聲
(積雪の楼台 壮観を増し 近春の鳥雀 和声有り)
太田晦巌(1876~1946)臨済宗

大梅窟と号す。埼玉の人。
円覚僧堂釈宗演に参じ、法嗣となる。品川東海寺に住す。
大正14年、大徳寺において界堂。
昭和5年、円覚寺派管長に就任。
昭和10年大徳寺派第八代管長、並びに僧堂師家に就任。
昭和二十一年示寂
H27.12 本堂
R03.10 新庫裏
丘球学

(画)椎茸典座

(賛)
厭眉北鶴登如弓
烈日晒苔意気雄
他不是吾宗悦尽
雖共乃祖学玄風
 道元禅師が宋(中国)の天童山で修行中の話。
 仏殿(本尊さまを安置する堂)の前で一人の老僧が苔(たい。椎茸とする説や海藻とする説あり)を日に干していました。熱い陽ざしの下で笠もかぶらずきのこを並べているのがいかにも苦しそうです。老僧の背は弓のように曲がり、眉は鶴の羽のように白い。道元がその方に近づいて、おいくつでございましょうか、そう質問しますと「68歳」という。道元が「なぜ行者(修行僧)や下働きの人を使わないのですか」と聞くと、老僧は「他は是れ吾にあらず」(自分が修行せずに他の人にしてもらったのでは、自分のしたことにならない)と答えます。道元は「その通りでありましょう。しかし、もう少し涼しくなってからなされてはいかがでしょうか」と彼をいたわると、彼の老僧は「更に何れの時をか待たん」(いまやらずに、いつするのだ)との、老いた僧のするどい答えに、若い道元禅師は深い感銘を受けたのです。
 この場面を描いたもの。
丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H27.8 本堂
R05.08 本堂
(画)初転法輪

(賛)
宿願受生清海辺
幼齢薙髪月光嶺
廬山求道伝心印
比島従軍觸瘴煙
戦後尤嗟先公徳
機前深慮潤荒田
鳳林陞座花開處
髣髴西天鹿苑仙
丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H25.11.1~11.15 本堂
R03.10~12
客間
禅園曽植一株松
銕幹蟠根翠蓋濃
捲起風雲東海岸
雄姿髣髴上天龍

賀賢明禅人○版於高岳精舎

昭和八年十月念日 西堂修禅球学

昭和八年(1933)10月、6世賢明和尚が、大井川・高岳寺において首座をつとめた時に、当時の修禅寺住職・丘球学老師よりいただいたもの。
丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H30.01 本堂
R06.01 本堂
撃竹一声亡○見
那辺清韻徹○身

「香厳撃竹」(きょうげんげきちく)の話
(唐の香厳智閑が、道を掃除していたとき、突然飛んだ瓦礫(小石)が竹を撃った音を聞き、たちまち悟ったという故事)がモチーフか。

丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H29.8 本堂
R5.5 本堂

「拈一茎菜 作丈六身」

一茎菜を拈じて丈六身となす
(いっきょうさいをねんじてじょうろくしんとなす)

道元禅師の著書「典座教訓」に、「拈一茎菜 作丈六金身 請丈六金身 作一茎菜」(一茎菜を拈じて、丈六の金身となし、丈六の金身を請して一茎菜となす)
とある。

丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H29.7 本堂
(年徳大善神) 丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H31.1 本堂

丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H30.8 本堂
(釈迦成道図)
12月8日にお釈迦さまがおさとりをひらいた様子をあらわしたもの。
丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
毎年12月本堂
(右から)
彩羽乗風展
鳳凰楼山瑞雲岡
朱冠映日光

昭和二十四年晩秋
丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H30.7.1~9.30 客間
(絵)地蔵菩薩

(書)為三界萬霊

昭和十一年春彼岸
鳳林寺永代供養塔の石碑を拓本にしたもの。 丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H25.8 本堂
R2.7~9 客間
(絵)地蔵菩薩

(書)為三界萬霊

昭和十一年春彼岸
鳳林寺永代供養塔の石碑 丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
永代供養塔正面
「落葉掃(はき)て竹尓(に) 那畔(なはん)のひびき聞く」
「香厳撃竹」(きょうげんげきちく)の話
(唐の香厳智閑が、道を掃除していたとき、突然飛んだ瓦礫(小石)が竹を撃った音を聞き、たちまち悟ったという故事)がモチーフか。

 「那畔」は「以前」を意味するが、これは香厳が師から「父母未生以前(父母のもまだ生まれる前)の一句を言え」という公案を与えられていたため。香厳には竹に小石があたって響く音が父母未生以前の一句を示す響きになったのだろう。
丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H26.8 本堂
R1.8  本堂
(丘)大潤宗潭

(賛)
艸鞋扶竹杖
行脚任東西
富岳三千丈
比○一寸低

(画)富士見西行図
(丘)大潤宗潭(1860(万延1)~1921(大正10))
 尾張(愛知県)の人。万延元年9月出生。竜泉寺桃見未徹の法嗣。
 西有穆山について「正法眼蔵」を参究し、その蘊奥を究めた。
 明治32年曹洞宗大学林学監兼教授となり、同36年第1回曹洞宗教育会議員に任ぜられた。同38年5月、森田悟由の発願によって創設された眼蔵会の第1回目講師として西有穆山の委嘱を受けて出講した。
 大正2年「室中三物秘辨」「教授戒文」「一心戒文」を校訂刊行し、同6年には永平寺監院 となり、翌年曹洞宗大学長になった。この間、美濃(岐阜県)洞雲寺・但馬(兵庫県)養源寺・伊豆(静岡県)修善寺・肥後(熊本県) 大慈寺に住し、門下からは丘球学・沢木興道・橋本恵光等の宗師家を出している。  大正10年4月、京都に紫竹林学堂安泰寺を開設する。  同10年8月17日示寂。世寿62。遺著に「曹洞宗意綱要」がある。
H27.11 本堂
R05.11 本堂

(画)
達磨

(賛)
一語嘲梁帝
群臣皆熱瞞
無情鈍致僕
太怪化縁寛

菩提達磨(ぼだいだるま)は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。


10月5日の達磨忌にちなみ、展示した。
(丘)大潤宗潭(1860(万延1)~1921(大正10))
 尾張(愛知県)の人。万延元年9月出生。竜泉寺桃見未徹の法嗣。
 西有穆山について「正法眼蔵」を参究し、その蘊奥を究めた。
 明治32年曹洞宗大学林学監兼教授となり、同36年第1回曹洞宗教育会議員に任ぜられた。同38年5月、森田悟由の発願によって創設された眼蔵会の第1回目講師として西有穆山の委嘱を受けて出講した。
 大正2年「室中三物秘辨」「教授戒文」「一心戒文」を校訂刊行し、同6年には永平寺監院 となり、翌年曹洞宗大学長になった。この間、美濃(岐阜県)洞雲寺・但馬(兵庫県)養源寺・伊豆(静岡県)修善寺・肥後(熊本県) 大慈寺に住し、門下からは丘球学・沢木興道・橋本恵光等の宗師家を出している。  大正10年4月、京都に紫竹林学堂安泰寺を開設する。  同10年8月17日示寂。世寿62。遺著に「曹洞宗意綱要」がある。
H30.10 本堂
R05.10 本堂
神戸麗山
(絵)達磨 菩提達磨(ぼだいだるま)は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。

「無功徳」とは、従容録「達磨廓然」の話より。
見返りを求める善行は、本当の善行ではない、という事。

10月5日の達磨忌にちなみ、展示した。
神戸麗山
享和2年(1802)庵原郡松野村の医者好吉の長男として生まれた。
文政9年(1826)家を弟柳恭に譲り京都に上り、岸岱に師事した。
天保11年(1840)には帰郷し、有度山麗に庵を構えた。
H26.10.1~10.15本堂
R2.10~12 客間
(絵)雲龍 神戸麗山
享和2年(1802)庵原郡松野村の医者好吉の長男として生まれた。
文政9年(1826)家を弟柳恭に譲り京都に上り、岸岱に師事した。
天保11年(1840)には帰郷し、有度山麗に庵を構えた。
H27.7.1~9.30
R03.04~06
 客間
神戸麗山
享和2年(1802)庵原郡松野村の医者好吉の長男として生まれた。
文政9年(1826)家を弟柳恭に譲り京都に上り、岸岱に師事した。
天保11年(1840)には帰郷し、有度山麗に庵を構えた。
H28.1.1~3.31 客間
R05.04~06 客間
(岸澤)眠芳惟安
青松骨老龍鱗動 (岸澤)眠芳惟安(1865~1955)

埼玉の人。幼名は計之助。明治15年埼玉県師範学校を卒業、小学校を訓導として勤務し、明治30年9月(32才)発心して西有穆山について得度し、ついで34年嗣法す。
また丘宗潭にも学び、正法眼蔵の参究に生涯をつくす。
明治37年埼玉県清法寺住職となり、その間、修善寺および西有寺僧堂に勤め後生を育成す。
ついで兵庫県永源寺に転住しのち京都安泰寺、青森県伝光寺等に住し、静岡県旭伝院を開創す。
洞門の師家として綿密な家風をもって知られ、13年間永平寺の眼蔵会講師をつとめ、また5年間にわたり西堂の職にあり、昭和30年3月26日示寂。世寿91才。
著書に「五位顯訣元字脚葛藤集」をはじめ正法眼蔵の中、生死・四摂法・行持・現成公案各巻の「葛藤集」と題する注解書、「宗意安心(修證義大要)」のほか「室内三物秘辨」の校訂「旭傳開山眠芳惟安和尚語録」「正法眼蔵全講」等多数ある。
H25.6.1~6.15
R3.7~9
本堂
瑩山紹瑾
大本山總持寺に秘蔵されている瑩山禅師の御真筆「總持寺中興縁起」の「当寺仏法熟霊場也。自鳴法事 聲通方外」という文から撮って拡大し、ご署名も同じ「中興縁起」の奥書からそのまま影写したものであります。
太祖常済大師瑩山紹瑾禅師(文永5年10月8日(1268年11月21日)- 正中2年8月15日(1325年9月29日))日本の鎌倉時代の曹洞宗の僧侶。 H28.11 事務室
(久我)環渓密雲
有田不耕倉廩虚 白楽天の勸學文に、
有田不耕倉廩虚。有書不教子孫愚」
(田ありて耕さざれば倉廩(ソウリン)虚(ムナ)し。書ありて教えざれば子孫は愚かなり。)とある。

  如何に田畑があろうとも、耕さなければ米の倉庫も穀類の倉庫も空になる。如何に蔵書があろうとも、教えてやらなければ子孫は愚かになる。
(久我)環渓密雲
(1817(文化14)~1884(明治17))
 越後の人。俗姓は細谷氏。のち久我氏の姓を嗣ぐ。
 別号を象峰、雪主という。
 12歳、近江清涼寺の寂室堅光について出家し、
のち興聖寺回天に参じ、その法を嗣いだ。
 興聖寺に住し、河内長福寺、和泉蔭涼寺、武蔵豪徳寺を経て、
 明治4(1871)年、永平寺第61世に晋住した。
 当時の洞門で化縁の盛なこと總持寺の奕堂と並び称された。
 明治17(1884)年示寂。世寿68歳。
H25.4.16~4.30 本堂
R2.4 本堂
體舒(たいじょ)
心荘體舒(しんそうたいじょ)
(心おごそかなれば体はのびのびする)
という言葉がある

(久我)環渓密雲
(1817(文化14)~1884(明治17))
 越後の人。俗姓は細谷氏。のち久我氏の姓を嗣ぐ。
 別号を象峰、雪主という。
 12歳、近江清涼寺の寂室堅光について出家し、
のち興聖寺回天に参じ、その法を嗣いだ。
 興聖寺に住し、河内長福寺、和泉蔭涼寺、武蔵豪徳寺を経て、
 明治4(1871)年、永平寺第61世に晋住した。
 当時の洞門で化縁の盛なこと總持寺の奕堂と並び称された。
 明治17(1884)年示寂。世寿68歳。
H26.5.16~5.31 本堂
R04.04 本堂
古知知常
穿雲踐浪跨乾坤
相尽宗沙千戸門
経口開時無○物
九山八海独鯨呑

明治二十一年夏
賀 禅明○士標題久住山 古知知常叟
明治21年夏、当山4世禅明和尚が、洞慶院独住2世古知知常和尚さまよりいただいたお祝いの漢詩。 古知知常(1840~1895)

洞慶院独住2世
天保11年小田原生まれ。
明治8年洞慶院独住2世、法幢を開き修行道場としての面目を新たにする。
明治26年修禅寺に移り
明治28年7月25日示寂。56歳。

H25.7.16~7.31 本堂
R2.8 本堂
○○天非○月清新 ○○○○光
射○伴○○任地○笑○徳
○解譲半筵晨

賀 ○明宗匠之○衆 久住山  ○○○

古知知常(1840~1895)

洞慶院独住2世
天保11年小田原生まれ。
明治8年洞慶院独住2世、法幢を開き修行道場としての面目を新たにする。
明治26年修禅寺に移り
明治28年7月25日示寂。56歳。

H26.7.1~7.15 本堂
R1.7 庫裏
(沢木)祖門興道
永平有箇単轉句 雪裏梅花唯一枝
中下多聞多不信 上乗菩薩信無疑
永平高祖示衆之偈

遠孫興道敬書
永平廣録に
 「永平有箇単轉句
  雪裏梅花唯一枝
  中下多聞多不信
  上乗菩薩信無疑

  永平高祖示衆」

とある。
(沢木)祖門興道
(1880(明治13)~1965(昭和40))
三重の人。17歳で出家を志し、越前の永平寺に入る。
天草の宗心寺の沢木興法につき得度。
日露戦争に従軍し重傷を負う。
のち法隆寺の佐伯定胤について法相唯識を学ぶ。
熊本の大慈寺僧堂講師となり、参禅を指導。
以後、「移動叢林」とも呼ばれたように、各地で参禅
指導を努めた。
昭和10年、駒澤大学教授および總持寺後堂職に就任。
栃木県大中寺に「天暁禅苑」を開設、京都安泰寺に
「柴竹林参禅道場」を開く。
昭和38年、駒澤大学の名誉教授となり、安泰寺に退く。
通称「宿無し興道」と称され、生涯寺を持たず、参禅と
教化に勤め、昭和40(1965)示寂。世寿86歳。
H25.12.1~12.15 本堂
R3.1 本堂
寂潭俊龍
天東南高地西北低

獨尊道人書
寂潭俊龍(?~明治2(1870))

独尊道人と号す。
棟獄俊梁の法を嗣ぎ、天保7年、下野実相院に住し、同12年、浪華烏鶴楼に退居、
風外本孝のあとを嗣いで三河香積寺に住す。
嘉永6年、武蔵豪徳寺の巨海東流示寂のあとを嗣ぐ
文久元年、近江の清涼寺(井伊家の菩提所)25世として晋住。
明治2年示寂。世寿不詳。
H25.4.1~4.15 本堂
R3.3 本堂
(鷹林)吹毛冷生
若無有限之心
自有無窮之福
典座教訓に
「若無有限之心。自有無窮之福。蓋是供衆住持之心術也。」
(若し有限の心無んば,自ら無窮(むきゅう)の福有らん。蓋(けだ)し是れ衆に供(ぐう)ずるは住持の心術なり。)
とある。
(鷹林)吹毛冷生
名古屋市福寿院9世、
名古屋市法持寺29世、
甲州長生寺37世、
甲州慈照寺30世、
大本山永平寺後堂より監院。
明治31(1898)年示寂。67歳。
白鳥鼎31嗣
H25.05 本堂
R02.06 本堂
R03.04~06 新庫裏
信道元功徳母 養長一切諸善法 華厳経に
「信道元功徳母 養長一切諸善法」とある。

信は道の元であり、功徳の母である。一切のもろもろの善法を長養し、疑いの網を断って、まよいを出、涅槃のさとりを開かせる。
(鷹林)吹毛冷生
名古屋市福寿院9世、
名古屋市法持寺29世、
甲州長生寺37世、
甲州慈照寺30世、
大本山永平寺後堂より監院。
明治31(1898)年示寂。67歳。
白鳥鼎31嗣
H27.1.16~1.31 本堂
R2.10~12 新庫裏
R4.01~03
新庫裏
建部快運
鶴舞千年松 亀遊万年池
鶴は舞う千年の松 亀は遊ぶ万年の池

不老長寿を願う鶴と亀、古くより伝わる縁起のいい詩。
建部快運 明治30(1897)~昭和63(1988)
明治30(1897)年 愛知県に生まれる
大正13(1924)年 高野山大学卒業
大正14(1925)年 浜松鴨江寺住職
昭和8(1933)年 高野山南院住職
昭和11(1936)年 再鴨江寺住職
昭和27(1952)年 浜松市仏教会会長
昭和43(1968)年 高野山大僧正
昭和53(1978)年 高野山宿老
昭和57(1982)年 曼荼羅集発刊
昭和63(1988)年 3月23日遷化
令和2年1月~3月客間展示
典外眞教
画 蘆葉達磨図

前徳願真教童 八十三齢画
落款に「勅持住秀道徳願増善東雲典外教叟」
菩提達磨(ぼだいだるま)は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。


10月5日の達磨忌にちなみ、展示した。

典外眞教

丸子遠藤氏出身
石雲院輪住(安政5)
徳願寺25世
増善寺37世 (嘉永6年(1853)~文久2年(1862))
秀道院20世
宝寿院(文久2年)
東雲寺19世(明治6年)
宝珠院(法月院)法地開山
法明寺21世
明治23年(1890)2月8日示寂
H29.10 本堂
R3.10 本堂
富田哲宗
本来無一物 六祖慧能の偈に

菩提本無樹 菩提本(もと)樹無く
明鏡亦非台 明鏡も亦(また)台に非ず
本来無一物 本来無一物(ほんらいむいちもつ)
何處惹塵埃 何れの処にか塵埃を惹かん

(禅で言う空の世界・無の世界にはもともと菩提も無く煩悩も無く身もなく心も無く、本来無一物である。なんで塵や埃がつくことがあろうか、ましてや払ったり拭ったりすることもない)

とある。
富田哲宗

大本山總持寺単頭
山口・泰雲寺八世
H25.11 本堂
R03.06 本堂
この天地の間に生かされて 富田哲宗

大本山總持寺単頭
山口・泰雲寺八世
H26.7 本堂
R04.07 本堂
(永江)大忍金栄

平常心是道
(びょうじょうしんぜどう)
(へいじょうしんこれどう)
「無門関」第19則に「平常心是道」がある。

仏さまの道は、特別な修行を必要としない。平常心とは、あれこれと取捨選択をしない、ありのままの心である。日常の生活すべてが仏道である。

青木一枝様ご寄付
(永江)大忍金栄 

静岡 永江院
静岡 可睡斉52世
静岡 石雲院独住11世


H31.4 客間
(西有)穆山瑾英
南無観世音菩薩
(西有)穆山瑾英 (1822(文政5)~1910(明治43))
 可翁、無為庵、有安老人と号す。陸奥八戸の人。
13歳、長龍寺の金龍につき得度。
19歳、仙台松音寺天応悦音に侍す天保13(1842)年立身、
法を浅草本然寺安窓泰禅に嗣ぐ。
30歳、さらに相模海蔵寺の月潭全龍のもとで刻苦12年、ついに開悟。
駿河如来寺、相模英潮院、江戸宗参寺、桐生鳳仙寺、陸奥法光寺、
北海道中央寺、駿河可睡斎を歴任。
明治33(1900)年、西有寺の開山に請ぜらる。
明治34(1901)年、總持寺独住3世
明治35(1902)年、曹洞宗管長に就任
明治38(1905)年、總持寺を退隠。
明治43(1910)年示寂。世寿90。
直心浄国禅師。近代希有の眼蔵家といわれる。


H27.4.16~4.30 本堂
R05.03 本堂

(賛)
悲體、雷震 慈意妙大雲
澍甘露法雨 滅除煩悩焔  戒

明治甲午歳
穆山浄画併書

(画)観世音菩薩像

「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」に、

悲體戒雷震 慈意妙大雲
澍甘露法雨 滅除煩悩焔


とある。


「體」と「雷」の間の脱字「戒」を最後に補っている

「明治甲午歳」は、明治27(1894)年。
 
(西有)穆山瑾英 (1822(文政5)~1910(明治43))
 可翁、無為庵、有安老人と号す。陸奥八戸の人。
13歳、長龍寺の金龍につき得度。
19歳、仙台松音寺天応悦音に侍す天保13(1842)年立身、
法を浅草本然寺安窓泰禅に嗣ぐ。
30歳、さらに相模海蔵寺の月潭全龍のもとで刻苦12年、ついに開悟。
駿河如来寺、相模英潮院、江戸宗参寺、桐生鳳仙寺、陸奥法光寺、
北海道中央寺、駿河可睡斎を歴任。
明治33(1900)年、西有寺の開山に請ぜらる。
明治34(1901)年、總持寺独住3世
明治35(1902)年、曹洞宗管長に就任
明治38(1905)年、總持寺を退隠。
明治43(1910)年示寂。世寿90。
直心浄国禅師。近代希有の眼蔵家といわれる。
H26.1.16~1.31 本堂
R03.08 本堂
關 透得来

穆山書
無門関に 「頌曰。大道無門。千差有路。透得此關。乾坤獨歩」
(頌に曰く、大道無門、千差路あり。此の関を透得せば、乾坤に独歩せん。)とある。

大道に入る門は無く、到るところが道なれば、無門の関を透過して、あとは天下の一人旅

(西有)穆山瑾英 (1822(文政5)~1910(明治43))
 可翁、無為庵、有安老人と号す。陸奥八戸の人。
13歳、長龍寺の金龍につき得度。
19歳、仙台松音寺天応悦音に侍す天保13(1842)年立身、
法を浅草本然寺安窓泰禅に嗣ぐ。
30歳、さらに相模海蔵寺の月潭全龍のもとで刻苦12年、ついに開悟。
駿河如来寺、相模英潮院、江戸宗参寺、桐生鳳仙寺、陸奥法光寺、
北海道中央寺、駿河可睡斎を歴任。
明治33(1900)年、西有寺の開山に請ぜらる。
明治34(1901)年、總持寺独住3世
明治35(1902)年、曹洞宗管長に就任
明治38(1905)年、總持寺を退隠。
明治43(1910)年示寂。世寿90。
直心浄国禅師。近代希有の眼蔵家といわれる。
H26.4.16~4.30 本堂
R4.01 本堂

(賛)

福寿如意

  七十八可翁

(画)宝珠
(西有)穆山瑾英 (1822(文政5)~1910(明治43))
 可翁、無為庵、有安老人と号す。陸奥八戸の人。
13歳、長龍寺の金龍につき得度。
19歳、仙台松音寺天応悦音に侍す天保13(1842)年立身、
法を浅草本然寺安窓泰禅に嗣ぐ。
30歳、さらに相模海蔵寺の月潭全龍のもとで刻苦12年、ついに開悟。
駿河如来寺、相模英潮院、江戸宗参寺、桐生鳳仙寺、陸奥法光寺、
北海道中央寺、駿河可睡斎を歴任。
明治33(1900)年、西有寺の開山に請ぜらる。
明治34(1901)年、總持寺独住3世
明治35(1902)年、曹洞宗管長に就任
明治38(1905)年、總持寺を退隠。
明治43(1910)年示寂。世寿90。
直心浄国禅師。近代希有の眼蔵家といわれる。


H26.1.1~1.15 本堂

R2.1 本堂
丹羽廉芳
心含不空邊
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。




H28.6 本堂
(円相)箇中 「箇中」とは、「この中」の意味。
禅の境地は全てこの円相の中、という事か?
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H28.7 本堂
R05.07 本堂
真味只是淡(しんみはただこれたんなり) 「菜根譚」に
 ジョウ肥辛甘非真味 じょうひしんかんはしんみにあらず (ジョウは酉へんに農)
 真味只是淡 しんみはただこれたんなり
 神奇卓異非至人 しんきたくいはしじんにあらず
 至人只是常 しじんはただこれじょうなり

とある。

意訳)濃い酒、脂っこい肉、辛いもの、甘いもの、このような濃い味はほんものの味ではない。ほんものの味はただ淡白なものである。
(同じように)神のように奇異で才能あふれた人が至人ではない。至人というのはごく普通の人に見えるものである。(至人=道をきわめた人)
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H26.5.1~5.15 本堂
R04.03 本堂
薫風自南来 唐の時代の文宗皇帝が作った起承の二句
人皆苦炎熱  人は皆炎熱に苦しむも
我愛夏日長  我れ夏日の長きを愛す

に対して文人の柳公権が転結句として
薫風自南来  薫風南自 (より) 来たり
殿閣生微涼  殿閣微涼を生ず
とつけた。

薫風の清涼さは 単なる感覚的清涼さではなく精神的な清涼さとして、 是非、善悪・利害。得失などの相対的な考え、思想に とらわれないさばさばとした境涯であり、一切の 煩悩の垢の抜けきった無心の境地を表す語である。
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H25.5.1~5.15 本堂
R3.05 本堂
無事是貴人
臨済録に、
「師示衆云。道流。切要求取真正見解。向天下横行。免被這一般精魅惑亂。無事是貴人。但莫造作。祗是平常。」
とあります。
無事とは、仏や悟り、道の完成を他に求めない心をいいます。貴人とは、貴ぶべき人、すなわち仏であり、悟りであり、安心であり、道の完成を意味します。
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H25.12.16~12.31 本堂
R03.11 本堂
放下着(ほうげじゃく)  「放下(ほうげ)」とは、投げ捨てる、放り出す、捨て切るの意です。「着(じゃく)」は命令の助辞(じょじ)で、放下の意を強めるために用います。
 「放下着」、すなわち煩悩妄想はいうに及ばず、仏や悟りまでも捨て去る、すべての執着を捨て去れ、すべてを放下せよ!という意味。
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H26.6 本堂
R04.05 本堂
時雨洗紅葉
(時雨紅葉を洗う)
紅葉が時雨にうたれ、
より一層美しく、光輝いている
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H29.11 本堂
龍 日献四海水

「諸回向清規」に
「家有壬癸神 日献四海水」
(家に壬癸の神(水神)あり 日々四海の水を献ず)とある。

火伏せのおまじないの軸と思われる。

丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H28.3 本堂
R06.03 本堂
赤洒々 「洒々(しゃしゃ)」とは、はっきりして清浄なこと。まる裸の一点の汚れもないところをいいます。
 すなわち、見栄も欲も外聞も捨てて、少しも隠すところなく、人間としてありのままの素裸の状態を「赤洒々」というわけです。
 それは修行に修行を重ねて、一切を放下して、純真無垢な赤子のような実に無邪気な消息です。赤子が「オギャー」と泣き叫ぶ姿を見てください。何の欲望 も、何の野心もありません。迷悟、善悪、美醜、貧富、自他、是非、一切の分別心(あれこれとこだわる心)を離れて、文字通り天真爛漫、無念、無想、無心、 清浄無垢(しょうじょうむく)の素裸の世界です。
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H27.3.1~3.15 本堂
R0408 本堂
無礙(むげ) 妨げのないこと。何ものにもとらわれないこと 丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H27.5.1~5.15 本堂
R05.04 本堂
長谷川文丈
和顔(わげん) 『華厳経』、『無量寿経』に「和顔愛語」という言葉がある。

常に穏やかな気持ち、笑顔で接することは、人を幸せに出来る力があるという意味。
長谷川文丈

名古屋盛屋寺住職
總持寺後堂
總持寺祖院監院

H26.9.1~9.15 本堂
R04.06 本堂
(秦)黙道慧昭
(龍天軸) 龍天護法善神の名を記した掛け軸のことで、修行に赴く際に、修行者自身の安全や、道念増長などを祈って携帯する。一般的には「白山妙理大権現・龍天護法大善神」と二神を並列に書く。 (秦)黙道慧昭(1862(文久2)~1944(昭和19))
 百不能と雅号す、江戸の人。
 6歳品川天竜寺秦慧芳に投じ、師の兵庫長松寺転住に従い、同寺にて得度。
 曹洞宗専門本校に学び、永平寺に安居、立身し、久我環渓、長森良範に随侍。ついで可睡斎の西有穆山に参じたが、病気のため帰山。29歳、長松寺の師席を継ぎ、消失後の同寺を復興、再び可睡斎で参究。宮津の智源
寺、般若林の福昌寺に転住、般若林専門僧堂を開いて育英に務む。
 昭和8年、永平寺68世貫首に就任。
 昭和19年、東京田中寺の梅樹室にて入寂。世寿83歳。勅謚大規正信禅師。

H27.6. 事務室
R06.03 寺務室
原田雪渓
菩提心
「修証義」に、
「菩提心を発(おこ)すというは 己(おの)れ未(いま)だ度(わた)らざる前(さき)に 一切衆生を度(わた)さんと 発願(ほつがん)し営むなり」
(菩提心とは、自分だけでなく、全ての人々が、みな共に幸せを得られるよう、願い務めることである)
とある。
原田雪渓
昭和元年(1926年)旧姓・蜂須賀雪渓。愛知県岡崎市に阿波城主・蜂須賀候の末裔として誕生。
明治大学卒業。第2次世界大戦では海軍主計官。
そのまま発心寺専門僧堂で原田雪水老師の指導のもと専一に工夫修行す。
1953年のあるとき、浜松井上義衍老師のことを聞き及び絶縁覚悟で発心寺を飛び出て、曹洞宗龍泉寺・義衍老師のもとに身を投下す。
48歳、発心寺僧堂・堂頭
50歳、発心寺専門僧堂師家
1982年ごろから、ドイツ、アメリカ、インドに接化
1998年 大本山総持寺西堂
1999年 ヴァチカンでの世界宗教者会議に曹洞宗代表として出席
2002年 ヨーロッパ国際布教総監に就任
H25.6.16~6.30
R03.03
 本堂
(平尾)慈山禅明
子々孫々代々昌也 大正12(1923)(癸亥)年、鳳林寺四世禅明和尚が鳳林寺にて結制を行い、その時首座和尚に記念として渡した書と思われる。(何枚か書いてうまくいったものを渡し、残ったもののうちの一枚か)

「昌」は「さかん」の意で、子々孫々代々栄えることを願って書かれたものか。
(平尾)慈山禅明(1868~1951)
国吉田・桃原寺27世
富士・碧雲寺29世
鳳林寺第4世
鳳林寺中興
H26.12 客間
(伽藍落慶式を記念し展示した)
平尾(惠鑑)隆明
煙霞不遮梅香 煙霞不遮梅香(えんか ばいこうを さまたげず)

梅の花は、もやや霞のために隠れてはっきりと見えないが、しかし梅のよい匂いは、煙霞にも遮られることなく香ってくる、ということ。

煙霞を様々な障害妨げであったり悩妄想にたとえれば、真に悟れば仏性輝き、煩悩妄想の霧は払われるとも解されるし、
また、人徳は何ものにも妨げられることなく顕われ出るものであるとも解される。
平尾(惠鑑)隆明
静岡市駿河区中吉田普濟寺八世
H27.2.16~2.28本堂
R04.01 新庫裏
(賛)平沢 常富  (画)高田圓洲 

(画)養老の瀧

(賛)久里多め亭 先命から徒なきとめ天 老を養ふ瀧乃白糸

七十三歳 手から能をか持 (花押がわり?)


(くりためて 先命からつなぎとめて 老いを養う瀧の白糸

七十三歳 手柄の岡持)
※くりためて=たぐって巻き取る。

※「荷」を使っているので、隠居後の作と思われる


(賛)
平沢 常富(ひらさわ つねとみ、享保20年~文化10年)-

出羽国久保田藩の定府藩士で、江戸留守居。 朋誠堂喜三二(ほうせいどう きさんじ)の筆名で知られる戯作者、手柄岡持(てがらのおかもち)の狂名で知られる狂歌師でもある。通称は平角( 平格とも)、字は知足、号は愛洲。 隠居号は平荷。なお、上記のほか、青本では亀山人、笑い話本では道陀楼麻阿(どうだろう まあ)、俳号は雨後庵月成、朝東亭など多くの筆名や号を使い分ける。

(画)
高田圓洲 か?
書画辞典に「名は郷教、圓乗の子。狩野榮川院の風を能くす。享保年間の人なり」とある。

調査協力:田久 明 氏
平成30年5月1日~
      5月31日 本堂
R04.07~09 新庫裏

文天祥
上事於君 下交於友
內外一誠 終能長久
敬父如天 敬母如地
汝之子孫 亦復如是
上事於君 下交於友
(かみはくんにつかえ、しもはともにまじわり)
内外一誠 終能長久
(ないがいまことをひとつになせばついにちょうきゅうをよくせむ)
敬父如天 敬母如地
(けいふはてんのごとく けいぼはちのごとし) 
汝之子孫 亦復如是
(なんじのしそんまたなりてかくのごとし)

君主の為を思って忠勤に励み友人と誠意を持って付き合うように、皇帝・廷臣と庶民とが誠実に生きていれば国家は長く平和でいられるだろう。
父は天のようで母は大地のように尊いものだ。あなたの子孫もまたその繰り返しなのだから同じように尊ぶべきである。
文天祥(1236年~1283年)
中国南宋末期の軍人、政治家。
H27.10~12 客間
R04.10~12 客間
 寿 文天祥(1236年~1283年)
中国南宋末期の軍人、政治家。

H29.1~3 客間
R06.01~03 客間
(増田)鑑禅慧亮
青山元不動 白雲自去来(青山もと不動。白雲自ら去来す。) 白い雲は白い雲の好きなように‥
そして山は何があっても動ずることがない。

これは
白雲は妄想や煩悩などの例えで、
雲が次から次へと湧き起こり去来しても、
山は元の姿のままそこにあるように、
人間は本来の仏性があり、
これに気づくなら煩悩や妄想の雲に
惑わされることはないとのこと。

自然のままに人に惑わされず、人の目を気にせず
心を他にとらわれることなく自分の信念を貫き
わが道を行く
(増田)鑑禅慧亮
鳳林寺開山
桃原寺26世
静岡瑞龍寺25世
円福寺開山


H25.7.1~7.15 本堂
R2.7 本堂
常在其中佛祖禅
十方回聚結明縁
安居面目須如佳
潤澤鳳林大福田

大正12年、鳳林寺5世 禅明和尚の晋山にあたり、慧亮師より頂いたお祝いの漢詩。 (増田)鑑禅慧亮
鳳林寺開山
桃原寺26世
静岡瑞龍寺25世
円福寺開山
H29.5 本堂
(増田)健瑞亮康
般若心経 (増田)健瑞亮康
桃原寺28世
間宮英宗

一物無
(いちもつなし)
事物はすべて本来空(くう)であるから、執着すべきものは何一つないということ 「間宮英宗」とある。

臨済宗の僧。方広寺派管長。愛知県生。青龍窟と号する。天龍寺僧堂の峨山昌禎・円覚寺の釈宗演に参じた。昭和20年(1945)寂。
R1.5 本堂
(水野)大洞道戒

(賛)
九年面壁
大乗別傳

(画)達磨
菩提達磨(ぼだいだるま)は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。

「無功徳」とは、従容録「達磨廓然」の話より。
見返りを求める善行は、本当の善行ではない、という事。

10月5日の達磨忌にちなみ、展示した。
(水野)大洞道戒

大洞院 独住第5世
H27.10 本堂
R04.10 本堂
(諸嶽)栴崖奕堂
松風巌下夢猶穏 (諸嶽)栴崖奕堂(1805(文化2)~1879(明治12))
 尾張の人。俗姓は平野氏、のち諸嶽氏に改める。
 別号を無似子、三界無頼という。
 14才、尾張聖応寺雪堂暁林に就いて出家。 のち出遊して、越後黄竜寺道契、美濃全昌寺洞門、浪花鳥鵲楼風外に歴参したが、のち暁林のもとに帰り、その法を嗣いだ。
 弘化2年(1845)上野竜海院に住し、加賀天得院を経て、能登總持寺(独住第1世)に晋住した。
 明治12年(1879)、巡錫中の羽前善宝寺に示寂。世寿75才。
 著書に「懶眠余稿」がある
H26.2.16~2.28 本堂
R1.11 本堂
無眼道光覆没縁
大機○轉劫空前
栴崖萬仭○哨月
澄○成亀任錯傳


諸嶽奕堂
(諸嶽)栴崖奕堂(1805(文化2)~1879(明治12))
 尾張の人。俗姓は平野氏、のち諸嶽氏に改める。
 別号を無似子、三界無頼という。
 14才、尾張聖応寺雪堂暁林に就いて出家。 のち出遊して、越後黄竜寺道契、美濃全昌寺洞門、浪花鳥鵲楼風外に歴参したが、のち暁林のもとに帰り、その法を嗣いだ。
 弘化2年(1845)上野竜海院に住し、加賀天得院を経て、能登總持寺(独住第1世)に晋住した。
 明治12年(1879)、巡錫中の羽前善宝寺に示寂。世寿75才。
 著書に「懶眠余稿」がある

H26.10.15~10.30 本堂
R1.10 本堂
その他
(涅槃図) 涅槃図とは、お釈迦さまが入滅(お亡くなりになる事)した時の様子を描いたものです。
お釈迦さまが入滅されたことを「涅槃に入る」ということから、この絵を涅槃図といいます。
曹洞宗の多くの寺院では、お釈迦さまが入滅したとされる2月15日に合わせて涅槃図を飾り、お釈迦さまを偲ぶ法要「涅槃会」を執り行います。
毎年2月展示

(十界図)

華厳経云若人欲了知三世一切仏応観法界性一切唯心造云〃夫十界三世の諸法○本来吾心の内○具足せ○○○心○自性○き故○境界○○○○移わかはれハ取作○業因了依○苦楽○果報を感○さ○○殺生偸盗謗法の心○地獄となる慳貪邪見○○ハ餓鬼と○る愚痴耽婬○○ハ畜生とな○驕慢偏執○心○修羅となる五戒十善を行する心ハ人天の因となる独善出離の心を声聞縁覚となる智慧慈悲広大○○○菩薩と○る妙覚果満志了佛となる誠○○法ハ千差万別なれども一心をい○○一切世間中心○○生せさるかな○一念迷ふ時ハ善を転じて悪をなして苦果をうけ○一念悟る時○悪を転じて善を作して楽報○うく善悪苦楽ハ唯人の一心○依れハ吾心を○○此図を○○吾心を照らし六道の因果○厭離し佛○皈○○○○を欣求○○○
彼岸中展示
(四国八十八ヶ所宝印軸)
R2.4~6 客間
「庚申搆社」
青面金剛童子

平成16(2004)年、中之郷の庚申講閉講に伴い、鳳林寺に納められたもの。2講あり、ひとつは、「庚申搆社」 もうひとつは青面金剛童子が描かれたものであった。未表具の青面金剛童子とともに合わせてひとつの掛軸に表具した。

詳しくは、庚申信仰 のページにて。
大国主命 平成16(2004)年、中之郷の庚申講閉講に伴い、鳳林寺に納められたもの。2講あり、別々であったが、ひとつの掛軸に表具した。

詳しくは、庚申信仰 のページにて。
直指人心見性成仏(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ) 真理は自己の心の外にあるのではなく、自己の心のなかにこそ発見される。真理であるその自己の本性をみるならば、仏となることができる、という意。 「大乗天巌」の署名あり。 H27.9.1~9.15 本堂
R05.10~12
新庫裏
紫気南来萬象新 H28.4 本堂
R05.07~09 新庫裏
H30.12 客間
(火伏一字龍) これを懐中に収めて落雷を免れたり、日照りに降雨の利益があったなど、数々の霊験により、鎮火の護符として知られてきたものです。 不明 H26.3.1~3.15 本堂
R04.11 本堂
(火伏一字龍) これを懐中に収めて落雷を免れたり、日照りに降雨の利益があったなど、数々の霊験により、鎮火の護符として知られてきたものです。 不明 H28.11 本堂
R05.10~12 客間
火の用心 不明 H26.11.1~11.15本堂
龍天軸

奉請

龍天護法善神
白山妙理権現

八十六翁為雲林叟敬書
龍天護法善神の名を記した掛け軸のことで、修行に赴く際に、修行者自身の安全や、道念増長などを祈って携帯する。一般的には「白山妙理大権現・龍天護法大善神」と二神を並列に書く。
H28.1 事務室

(龍天軸)

龍天護法大善神
南無大行普賢菩薩

帰命一切三宝 慈峰太運敬書

若宮五社大明神
白山妙理大権現
龍天護法善神の名を記した掛け軸のことで、修行に赴く際に、修行者自身の安全や、道念増長などを祈って携帯する。一般的には「白山妙理大権現・龍天護法大善神」と二神を並列に書く。
H28.3 事務室
R04.06 寺務室
(龍天軸)
奉請

龍天護法大善神
白山妙理大権現

前大乗覚門○○書
龍天護法善神の名を記した掛け軸のことで、修行に赴く際に、修行者自身の安全や、道念増長などを祈って携帯する。一般的には「白山妙理大権現・龍天護法大善神」と二神を並列に書く。
裏に「前大乗覚門和尚」とある

加賀大乗寺39世 覚門禅師か?
(十六羅漢) H29.7~9 客間
R06.04~06 客間

(画)十六羅漢

(賛)
焼香禮拝
二ハ応真
空華水月
神変日新

七十一翁徳宗謹○
「徳宗」とあるが不明 H30.4~6客間
(画)不動明王  不動明王は、大日如来の使者で、人々の煩悩を断ち切るため奔走しているとされる。 H28.4~6
R3.7~9
客間
(画)白衣観音   H28.7~9客間
R05.07~09 客間
(画)達磨

(書)無功徳
菩提達磨(ぼだいだるま)は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。

「無功徳」とは、従容録「達磨廓然」の話より。
見返りを求める善行は、本当の善行ではない、という事。

10月5日の達磨忌にちなみ、展示した。
「蓬壷洞」とある。

落款に「喜」「巳」。

関防印に「凌雲志」
H28.10 本堂
R2.10 本堂
(出山釈迦如来) 6年の苦行を終えたのち、さらに真の悟りを求めて雪山を出るお釈迦さまの画。
禅宗ではおさとりを開かれた後のお釈迦さまの姿ともされる。

 お釈迦さまがおさとりを開かれた日は12月8日とされており、この日には「成道会(じょうどうえ)」という法要が行われる。「曹洞宗行持軌範」によると、この法要の前日準備に関し、出山像を須弥壇上に掛けるよう記されている。
不明 H28.12 本堂
R05.12 本堂
善光寺式阿弥陀三尊像(一光三尊阿弥陀如来像) 善光寺の本尊。中央に阿弥陀如来、向かって右側に観音菩薩、左側に勢至菩薩が一つの光背の中にお立ちになっている。 H29.3 事務室
R06.04~06 新庫裏
天照皇大神 八幡大神 春日大神

天照皇大神勅皇孫曰豊
葦原千五百秋之瑞穂國
是吾子孫可王之地也冝
爾皇孫就而治焉行矣寳
祚之隆當與天壌無窮者

天照皇大神手持寳鏡授
天忍穗耳尊而祝之吾兒
視此寳鏡當猶視吾可與
同床共殿以為斎鏡
髙皇産靈尊因勅曰吾則
起樹天津神籬及天津磐
境當爲皇孫奉齋矣汝天
兒屋根命天大玉命宜持
天津神籬降於葦原中國
亦爲皇孫奉齋焉

仙通三姿 神勅 御神號

一段落目:天壌無窮の神勅
天照大御神が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に勅して申されるには、
「豊かで瑞々しいあの国は、わが子孫が君主として治めるべき国土です。わが孫よ、行って治めなさい。さあ、出発しなさい。皇室の繁栄は、天地とともに永遠に続き、窮まることがありません。」
二段落目:
天照大神(アマテラスオオミカミ)は持っていた寶鏡(タカラカガミ)を天忍穗耳尊(アメノオシホミミノミコト)に授けて、祝って言いました。
「我が子よ。この寶鏡(タカラカガミ)を見るときには、私(=アマテラス)を見ていると思いなさい。住まいを同じにして、宮殿を同じにして、この鏡を神として祀りなさい」

三段落目:日本書紀
高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は命じました。「わたしは神が宿る『樹』の天津神籬(アマツヒモロキ)と神が宿る『岩』の天津磐境(アマツイワサカ)を立てて、私の子孫を祝い祀ろう。
お前たち、天兒屋命(アマツコヤネノミコト)・太玉命(フトダマノミコト)は天津神籬(アマツヒモロギ)を大切にし、葦原中国(アシハラナカツクニ=地上)に降りて、私の孫を祝い祀りなさい」

豊川尊天(吒枳尼眞天)
「至聖先師像」 
画 孔子像
※軸裏に「台中孔子廟」とある H29.10~12 客間
(題)
春風第一枝

(賛)
清李方膺詩
揮毫落紙墨痕新
幾點梅花最可人
願借天風吹得遠
家家門巷盡成春
甲子年三月仲伯書

(画)梅
清代の画家、李方膺(りほうよう)の詩に、
「揮毫落紙墨痕新
幾點梅花最可人
願借天風吹得遠
家家門巷盡成春」とある。

「甲子年三月」とある。昭和63年に檀家、滝田五郎氏から中国土産で頂いたので、昭和59年(1984 甲子)の作か。
「伯仲書」とある。 H30.1~3 客間
「梅村」とある H30.4 本堂
R06.01~03 新庫裏
(画)雲龍
「楽竜齋」とあるが詳細不明 H30.6 本堂
R1.10~12 客間

H30.7 本堂
H30.10~12 客間
R04.10~12 新庫裏
R0404 新庫裏
明治35(1902)年、道元禅師の650年大遠忌を記念して作成されたもの。
H27.1.1~1.15 本堂
R05.01 本堂
越前國志比庄吉祥山永平禅寺者  
佛法禅師道元和尚開闢之真跡而
賜  勅許紫衣之法窟日本曹洞
根起之大本山也二世懐弉及徹通
到吾先師瑩山四世正法展々支葉
聯綿其徒皆演暢宗乗権實兼行吾
又受瑩山示誨肇得永平之的意也
吾法徒太源通幻無端大徹實峯都
闢於玄門遠邇執法輪枢機諸宗服
膺者如海湧為駆鳥者若雲従嗚呼
世尊正法眼扶桑独赫々者宲
元和尚傑出之故也故児孫深甘永
平之禅味各自知法乳之恩而長應
憶祖山之栄光若教真跡於令著荒
蕪之地者不永平之児孫○菩薩子
勉焉  貞治二年八月二十八日
古佛第五之法孫峨山再礼塔焚香
謹記
※ 「○」は「ム」の下に「先」
平成27(2015)年、峨山禅師650回大遠忌の記念品として大本山總持寺からいただいたもの。
承陽殿前祖山護持塔拓本を縮小し軸装したもの。
H31.3 寺務室

(般若心経) 静岡市在住の児玉三重さまが書し、鳳林寺に寄贈したもの。 児玉三重さま H27.1~3 客間
R4.01 客間
(画)誕生仏
染川智勇(昭和41(1966)年10月1日~)

天台宗 金剛座寺住職。
H31.4 事務室
R2.4 事務室

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