色紙(50音順) | ||||
備考 | ||||
青山俊董 | ||||
梅開早春 | 青山俊董 昭和8年(1933年)愛知県一宮市生まれ。 5歳で長野県塩尻市の曹洞宗無量寺に入門。 15歳で得度し、愛知専門尼僧堂で修行。 駒澤大学仏教学部、同大学院修了。 曹洞宗教化研修所を経て、愛知専門尼僧堂勤務。 昭和51年、愛知専門尼僧堂堂長。 昭和59年 特別尼僧堂堂長。正法寺住職。無量寺住職。 |
H27.1 事務室 | ||
(浅野)大忍哲禅 | ||||
雲行観自在 水流不動尊 |
(浅野)大忍哲禅( ~1990) 明治30年愛知県に生まる。 昭和12年大本山総持寺単頭 昭和16年大洞院独住第9世。 能登大本山総持寺祖院西堂 |
H29.9 事務室 R06.08 寺務室 |
||
関 不許假雞 | 「関」は、『碧巌録』第八則「翠巌眉毛」に出てくる語で、古来より禅門では大変透過するのが難しいとされる「雲門の関」という公案がある。 「假雞(かけい)」とは、ニワトリの鳴き真似の事。 ニワトリの鳴き真似をして関を開けさせた故事(鶏鳴狗盗)がある。 鳴き真似ではこの「雲門の関」は開かないぞ、の意か。 |
(浅野)大忍哲禅( ~1990) 明治30年愛知県に生まる。 昭和12年大本山総持寺単頭 昭和16年大洞院独住第9世。 能登大本山総持寺祖院西堂 |
R1.8 寺務室 | |
山遠水長西又東 青鞋破笠踏音風 鳥藤七尺知○意 萬里竹在一歩中 昭和甲寅秋日録古人語 |
「昭和甲寅」は、昭和49(1974)年 | (浅野)大忍哲禅( ~1990) 明治30年愛知県に生まる。 昭和12年大本山総持寺単頭 昭和16年大洞院独住第9世。 能登大本山総持寺祖院西堂 |
R1.9 寺務室 | |
岩本勝俊 | ||||
守拙 總持勝俊叟 |
菜根譚に 「文以拙進、道以拙成、一拙字有無限意味」 (文は拙を以て進み、道は拙を以て成る。拙の一字、無限の意味あり)とある |
岩本勝俊(~1979) 昭和9年 吉祥寺43世 昭和42年 總持寺19世 |
H30.5 寺務室 R06.01 寺務室 |
|
(梅田)快光信隆 | ||||
喫茶去(きっさこ) | 「去」の字は喫茶の強調の助辞であり、去るという意味はない。「お茶を一服如何ですか」とか「どうぞお茶でも召し上がれ」と云う意味。 中国唐時代の有名な禅僧の趙州和尚の話である。 その趙州和尚のもとに修行僧が教えを頂きたいとやって来た。 趙州「曽(か)って此間(すかん)に到るや」(お前さんはかってここに来たことがおありかな?) 僧 「曾(か)って到る」(はい、以前にも参りました) 趙州「喫茶去」(さようか、ならばお茶でも一服おあがりなさい) またあるとき別の修行僧がやって来た。 趙州「曾(かって)到るや」 僧 「曾(かって)到らず」(いいえ、ここに来たことはありません) 趙州「喫茶去」(左様か、ならばお茶でも一服おあがりなさい) これを聞いていたこの寺の院主は「和尚は曾ってここに来た者にも、はじめての者にも“お茶をどうぞ”と同じことをいわれるがどういうわけなんですか?」とたずねた。 趙州は是れに答えず「院主さん!」と呼ぶ。院主は思わず「はい」と 答えたその瞬間、趙州はまた「喫茶去」(まあ、お茶でも一服召し上がれ) このとき院主は、はっと悟ったという。このなぜ悟ったかの追体験がこの禅問答の意図である。それぞれ立場の違う三人に対し、ただ「喫茶去」と云って接したのは趙州の相対する分別、取捨、過去・現在、あちら・こちらと分かつ一切の意識を断ち切った、絶対の境地のあらわれに他ならない。そこには、凡聖、貴賎、男女、自他等の分別は無く一切の思量の分別の無い無心の境地からの「喫茶去」なのだ。 私たちは往々にして、好きな人や、金持ちや身分の高い人が来れば丁重にもてなし、嫌いな人や貧しい人にはいい加減な対応をしてしまいがちである。分別を入れず、誰に対しても計らい無く、真心から接して行きたいものである。 |
(梅田)快光信隆(1906(明治39)~1996(平成8)) 福岡県糸島郡二丈町生、福岡市東林寺梅田隆全に嗣法する。 駒澤大学、九州大学印度哲学科を卒業。 福岡禅覚寺13世、 東林寺18世 昭和57年10月、總持寺独住21世。 |
H28.6 事務室 R1.7 事務室 |
|
「莫妄想」(まくもうぞう) | 汾陽無業禅師(760~821)の言葉で、無業禅師は、一生の間、修行僧の質問に、ただ「莫妄想」の一句をもって答えたとされています。禅師はまた、もし、人がこの一句をよくよく徹しきったならば、元から具有している智慧や徳相が、たちまちに現前するだろう、と示しています。 仏教的な「妄想」とは、「二見にわたる分別心」をいいます。「莫」は、ない、ということです。 人は、「損・得」「長・短」「清潔・不潔」「善・悪」「明・暗」など、物事を二つの事象に分けて認識したがりますが、その境目はどこでしょう?そう、境目などないのです。それに気づきなさい、分け目を取り払いなさい、ということなのでしょう。 |
(梅田)快光信隆(1906(明治39)~1996(平成8)) 福岡県糸島郡二丈町生、福岡市東林寺梅田隆全に嗣法する。 駒澤大学、九州大学印度哲学科を卒業。 福岡禅覚寺13世、 東林寺18世 昭和57年10月、總持寺独住21世。 |
H30.8 寺務室 R06.06 寺務室 |
|
青山緑水 | 青い山と緑の水。雄大な自然の情景。 天地神羅万象との調和を意味している。 人間はすべての生き物と同じように大自然の中に 生かされているということを感じ、 奢り高ぶった気持ちが起きた時は、 この言葉と共に大自然に触れる事が大事。 |
(梅田)快光信隆(1906(明治39)~1996(平成8)) 福岡県糸島郡二丈町生、福岡市東林寺梅田隆全に嗣法する。 駒澤大学、九州大学印度哲学科を卒業。 福岡禅覚寺13世、 東林寺18世 昭和57年10月、總持寺独住21世。 |
H30.5 寺務室 R5.5 寺務室 | |
雪 後始知松柏操 | 『圜悟語録』四 『虚堂録』七 『禅類』十一庵居門 に、 「雪後始知松柏操 事難方見丈夫心」 (せつご はじめてしる しょうはくのみさお じ なんにして まさに あらわる じょうぶのしん) とある。 柏や松が緑のまま姿を変えなかったことは、冬が過ぎて雪が溶け始めてみてはじめてわかる。人間も同じで、苦労をした人は、難事にあたったとき、はじめてそのゆるぎなき心が見える。 |
(梅田)快光信隆(1906(明治39)~1996(平成8)) 福岡県糸島郡二丈町生、福岡市東林寺梅田隆全に嗣法する。 駒澤大学、九州大学印度哲学科を卒業。 福岡禅覚寺13世、 東林寺18世 昭和57年10月、總持寺独住21世。 |
R1.12 事務室 | |
月 穿潭底水無痕 | 「普灯録」七、雪峰上堂の語。月の光は、水の底までつき透すほど明るく、閑かなたたずまい。静寂そのもの。 | (梅田)快光信隆(1906(明治39)~1996(平成8)) 福岡県糸島郡二丈町生、福岡市東林寺梅田隆全に嗣法する。 駒澤大学、九州大学印度哲学科を卒業。 福岡禅覚寺13世、 東林寺18世 昭和57年10月、總持寺独住21世。 |
R1.10 寺務室 | |
(江川)徹玄辰三 | ||||
相承 (そうじょう) |
仏さまのみ教えを、師から弟子へと絶えることなく正しく受け継ぎ、さらに次の代へとそれをきちんと伝えていくことを「相承」といいます。 正伝のみ教えが、今日まで脈々と受け継がれてきたこの有難さと、それを未来に向けて伝え続けていくことの意義の重さを、われわれは深く噛みしめたいものであります。 「相承」の道は、「報恩」の道であるともいえましょう。 |
(江川)徹玄辰三(1928~2021) 昭和3年(1928)山梨県生まれ。 昭和28年(1953)山梨県清光寺住職、 昭和46年(1971)愛知県宝泉寺住職 昭和56年(1981)曹洞宗審議院副院長 平成8年(1996)大本山總持寺監院 平成22年(2010)大本山總持寺副貫首 平成23年(2011)4月大本山總持寺貫首 令和3年(2021)9月19日遷化 世寿93歳 |
H28.10 事務室 R04.11 寺務室 |
|
大石千世 | ||||
竹 | 大石千世 昭和18年(1943年) 静岡県生まれ 財団法人 独立書人団審査会員・評議員 財団法人 毎日書道展審査会員 抱一会副理事長 千世の会主宰 (元)東京芸術大学美術学部講師 |
H29.7 事務室 R06.05 寺務室 |
||
子 | 平成13年の冬に、八世光禪が、大石千世先生からいただいたもの。 | 大石千世 昭和18年(1943年) 静岡県生まれ 財団法人 独立書人団審査会員・評議員 財団法人 毎日書道展審査会員 抱一会副理事長 千世の会主宰 (元)東京芸術大学美術学部講師 |
R2.3 事務室 | |
戌 | 平成29年の冬に、八世光禪が、大石千世先生からいただいたもの。 |
大石千世 昭和18年(1943年) 静岡県生まれ 財団法人 独立書人団審査会員・評議員 財団法人 毎日書道展審査会員 抱一会副理事長 千世の会主宰 (元)東京芸術大学美術学部講師 |
H30.1 寺務室 戌年の新年に因み展示。 |
|
亥 | 平成30年の冬に、八世光禪が、大石千世先生からいただいたもの。 |
大石千世 昭和18年(1943年) 静岡県生まれ 財団法人 独立書人団審査会員・評議員 財団法人 毎日書道展審査会員 抱一会副理事長 千世の会主宰 (元)東京芸術大学美術学部講師 |
H31.1 寺務室 亥年の新年に因み展示 |
|
丘球学 | ||||
丘球学(1877~1953) 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた) 昭和12年永平寺後堂に就任。 昭和22年、永平寺西堂に就任、 昭和27年、永平寺初代副貫首。 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳 |
H26.11 寺務室 R04.01 寺務室 |
|||
通宵立雪 求道忘身 |
達磨の弟子、 慧可が、達磨に弟子入りを請うている様子を描いていると思われる。 慧可は、嵩山の少林寺で面壁していた達磨に面会し弟子入りを請うた。達磨は断ったが慧可はあきらめず、自らの腕を切り落として弟子入りの願いが俗情や世知によるものではない事を示し、入門を許されたと伝えられている。(雪中断臂) |
丘球学(1877~1953) 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた) 昭和12年永平寺後堂に就任。 昭和22年、永平寺西堂に就任、 昭和27年、永平寺初代副貫首。 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳 |
H26.12 寺務室 R04.12 寺務室 |
|
(左から読む) 賞観 天上 月不 夫手 中珠 |
丘球学(1877~1953) 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた) 昭和12年永平寺後堂に就任。 昭和22年、永平寺西堂に就任、 昭和27年、永平寺初代副貫首。 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳 |
H27.10 寺務室 R05.10 寺務室 |
||
碓房 篩精 胆室 得衣 |
「碓房」とは六祖慧能の事。 五祖弘忍の後継者と有力視されていた神秀よりすぐれた詩偈を作成した慧能は、その寺で寺男として米つき小屋で働いていた。 慧能が他の修行僧からの批判を受けることを恐れた弘忍は、ひそかに慧能に後継者の証である衣と鉢を渡して寺を出した。という逸話がある。 | 丘球学(1877~1953) 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた) 昭和12年永平寺後堂に就任。 昭和22年、永平寺西堂に就任、 昭和27年、永平寺初代副貫首。 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳 |
H28.6 事務室 R04.10 寺務室 |
|
達磨 | 菩提達磨(ぼだいだるま)は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。 「無功徳」とは、従容録「達磨廓然」の話より。 見返りを求める善行は、本当の善行ではない、という事。 10月5日の達磨忌にちなみ、展示した。 | 丘球学(1877~1953) 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた) 昭和12年永平寺後堂に就任。 昭和22年、永平寺西堂に就任、 昭和27年、永平寺初代副貫首。 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳 |
R2.10 寺務室 R6.10 寺務室 |
|
瑩山紹瑾 | ||||
聲 | 大本山總持寺に秘蔵されている瑩山禅師の御真筆「總持寺中興縁起」の「当寺仏法熟霊場也。自鳴法事 聲通方外」という文から撮って拡大し、ご署名も同じ「中興縁起」の奥書からそのまま影写したものであります。 |
太祖常済大師瑩山紹瑾禅師(文永5年10月8日(1268年11月21日)- 正中2年8月15日(1325年9月29日))日本の鎌倉時代の曹洞宗の僧侶。 | H28.11 寺務室 R05.09 寺務室 |
|
佐藤泰舜 | ||||
真 泰舜衲 |
佐藤泰舜(1890~1975) 明治23年(1890) 愛知県南設楽郡東郷村に生まれる。 大正2年(1913)勝楽寺二十八世 昭和30年(1955)長崎皓臺寺住職 昭和34年(1959)永平寺監院 昭和41年(1966)永平寺副貫首 昭和43年(1968)永平寺七十四世貫首・曹洞宗管長 昭和47年(1972)全日本仏教会会長 昭和50年(1975)2月28日遷化。世壽八十六歳。 |
H30.4 寺務室 R0506 寺務室 |
||
道元 | ||||
安楽 (高祖道元禅師御真筆複製) |
この色紙の文字は、花押(かき判)と共に、高祖道元禅師のご真筆で、国宝に指定され、大本山永平寺に所蔵されており、天福元年(1233)に浄書された『普勧坐禅儀』の中の語句であります。 原文には坐禅は「唯、是れ安楽の法門なり」とあります。背筋をのばし、肩の力を抜き、きちんと坐れば、進退は安らぎを得、いろいろな思いや、はからいを離れたとき楽な気心をえることはいうまでもありません。一日のうち、ひとときでも良いから正身端坐し、息を調えて、安楽の境地をえたいものであります。 |
高祖承陽大師道元禅師(正治2年1月2日(1200年1月19日)- 建長5年8月28日(1253年9月22日)) 鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の開祖。 |
H28.9 寺務室 R05.08 寺務室 |
|
永田泰嶺 | ||||
忍 | 永田泰嶺 か? 黄檗宗大本山万福寺 |
H29.7 寺務室 R05.04 寺務室 |
||
楢崎一光 | ||||
真峰道入鳳山増 | 楢崎一光(1918~1996) 瑞応寺29世 聖護寺中興3世 |
R2.5 寺務室 |
||
大智禅師 「鳳山山居(1)」 一抹軽煙遠近山 展成淡墨画図看 目前分外清幽意 不是道人倶話難 |
楢崎一光(1918~1996) 瑞応寺29世 聖護寺中興3世 |
R2.11 寺務室 | ||
大智禅師 「鳳山山居(2)」 截断人間是與非 白雲深処掩柴扉 當軒栽竹別無意 祇待鳳凰来宿時 |
楢崎一光(1918~1996) 瑞応寺29世 聖護寺中興3世 |
R2.12 寺務室 | ||
大智禅師 「鳳山山居(3)」 名韁利鎖留不住 晦跡煙霞水石中 折脚鐺児煎野菜 住山自効古人風 |
楢崎一光(1918~1996) 瑞応寺29世 聖護寺中興3世 |
R3.3 寺務室 | ||
大智禅師 「鳳山山居(4)」 草屋単丁二十年 未持一鉢望人煙 千林果熟携籃拾 食罷渓辺枕石眠 |
楢崎一光(1918~1996) 瑞応寺29世 聖護寺中興3世 |
R3.4 寺務室 | ||
大智禅師 「鳳山山居(5)」 萬象之中獨露身 更於何処著根塵 回首獨椅枯藤立 人見山兮山見人 |
楢崎一光(1918~1996) 瑞応寺29世 聖護寺中興3世 |
R03.05 寺務室 | ||
大智禅師 「鳳山山居(6)」 焚香独坐長松下 風吹寒露湿禅衣 有時定起下双澗 汲瓶五更残月帰 |
楢崎一光(1918~1996) 瑞応寺29世 聖護寺中興3世 |
R03.06 寺務室 | ||
大智禅師 「鳳山山居(7)」 空林卓錫卜幽栖 冷淡家風実可非 荷葉満池無線補 白雲為我坐禪衣 |
楢崎一光(1918~1996) 瑞応寺29世 聖護寺中興3世 |
R03.07 寺務室 | ||
大智禅師 「鳳山山居(8)」 終日搬柴運水中 分明顕露主人公 三千日月観成敗 坐断須弥第一峰 |
楢崎一光(1918~1996) 瑞応寺29世 聖護寺中興3世 |
R03.08 寺務室 | ||
丹羽廉芳 | ||||
清 |
丹羽廉芳 静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。 1930年東京帝国大学文学部卒業。 清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任 1955年洞慶院住職。 1960年永平寺東京別院監院。 1976年永平寺副貫主。 1985年1月、永平寺77世貫首に就任。 1993年9月7日、遷化。享年89。 |
H28.06 寺務室 R04.08 寺務室 |
||
文章筆硯既抛来(文章筆硯既に抛来す) | 道元禅師「句中玄」に 久在人間無愛惜 文章筆硯既抛来 看花聞鳥風情少 一任時人笑不才 とある |
丹羽廉芳 静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。 1930年東京帝国大学文学部卒業。 清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任 1955年洞慶院住職。 1960年永平寺東京別院監院。 1976年永平寺副貫主。 1985年1月、永平寺77世貫首に就任。 1993年9月7日、遷化。享年89。 |
H27.9 事務室 R04.04 寺務室 |
|
清光何處無 | 嘉泰普灯録巻十二に、 「獨露乾坤 光呑萬象 普天匝地 耀古騰今 且道 是箇甚麼 良久曰 此夜一輪滿 清光何處無」 (独り乾坤に露われ、光万象を呑み、普天匝地、古に耀き今に騰がる。且く道え、是れ箇のなんぞ。良久して曰く、「此の夜一輪満てり、清光いずれの処にか無からん) とある。 この夜一輪の明月がまどかに、清浄な光りの行きわたらぬところとてない、の意。 |
丹羽廉芳 静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。 1930年東京帝国大学文学部卒業。 清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任 1955年洞慶院住職。 1960年永平寺東京別院監院。 1976年永平寺副貫主。 1985年1月、永平寺77世貫首に就任。 1993年9月7日、遷化。享年89。 |
H30.10 寺務室 R06.07 寺務室 |
|
人生如朝露 |
丹羽廉芳 静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。 1930年東京帝国大学文学部卒業。 清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任 1955年洞慶院住職。 1960年永平寺東京別院監院。 1976年永平寺副貫主。 1985年1月、永平寺77世貫首に就任。 1993年9月7日、遷化。享年89。 |
H28.8 事務室 R0409 寺務室 |
||
耕不尽 (こうふじん) |
心を耕すことは限りはない 心の畑は耕せば耕すほど柔らかく肥沃になるので、どんなに耕しても完成にはならない。心はいつも耕し続けよう。 |
丹羽廉芳 静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。 1930年東京帝国大学文学部卒業。 清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任 1955年洞慶院住職。 1960年永平寺東京別院監院。 1976年永平寺副貫主。 1985年1月、永平寺77世貫首に就任。 1993年9月7日、遷化。享年89。 |
H27.5 寺務室 R03.12 寺務室 |
|
随縁 |
縁に従うこと。縁に従って物事が生ずること。 |
丹羽廉芳 静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。 1930年東京帝国大学文学部卒業。 清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任 1955年洞慶院住職。 1960年永平寺東京別院監院。 1976年永平寺副貫主。 1985年1月、永平寺77世貫首に就任。 1993年9月7日、遷化。享年89。 |
H28.4 事務室 R04.07 寺務室 |
|
無 | 丹羽廉芳 静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。 1930年東京帝国大学文学部卒業。 清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任 1955年洞慶院住職。 1960年永平寺東京別院監院。 1976年永平寺副貫主。 1985年1月、永平寺77世貫首に就任。 1993年9月7日、遷化。享年89。 |
R2.1 事務室 | ||
深山雪夜草庵中 | 「永平広録」に 西來祖道我東傳 釣月耕雲慕古風 世俗紅塵飛不到 深山雪夜草庵中 (西インドから中国に伝えた中国禅宗の祖師達磨の教えを、今度は自分が東方の日本に伝えることになる。 月に釣りをし雲に耕し古風を慕う(祖師方の教えを慕う)。 世俗の塵埃はここには入ってこない。 今深山の雪の夜、草庵の中でひたすら修行している。) とある |
丹羽廉芳 静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。 1930年東京帝国大学文学部卒業。 清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任 1955年洞慶院住職。 1960年永平寺東京別院監院。 1976年永平寺副貫主。 1985年1月、永平寺77世貫首に就任。 1993年9月7日、遷化。享年89。 |
H28.2 寺務室 R05.2 寺務室 |
|
莫妄想 | 汾陽無業禅師(760~821)の言葉で、無業禅師は、一生の間、修行僧の質問に、ただ「莫妄想」の一句をもって答えたとされています。禅師はまた、もし、人がこの一句をよくよく徹しきったならば、元から具有している智慧や徳相が、たちまちに現前するだろう、と示しています。 仏教的な「妄想」とは、「二見にわたる分別心」をいいます。「莫」は、ない、ということです。 人は、「損・得」「長・短」「清潔・不潔」「善・悪」「明・暗」など、物事を二つの事象に分けて認識したがりますが、その境目はどこでしょう?そう、境目などないのです。それに気づきなさい、分け目を取り払いなさい、ということなのでしょう。 |
丹羽廉芳 静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。 1930年東京帝国大学文学部卒業。 清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任 1955年洞慶院住職。 1960年永平寺東京別院監院。 1976年永平寺副貫主。 1985年1月、永平寺77世貫首に就任。 1993年9月7日、遷化。享年89。 |
R02.08 寺務室 |
|
梅開早春 管長永平廉芳 |
丹羽廉芳 静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。 1930年東京帝国大学文学部卒業。 清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任 1955年洞慶院住職。 1960年永平寺東京別院監院。 1976年永平寺副貫主。 1985年1月、永平寺77世貫首に就任。 1993年9月7日、遷化。享年89。 |
H30.3 寺務室 R06.02 寺務室 |
||
坐忘 (ざぼう) | 「坐忘」とは、身心のあることも、そのはたらきも忘れ、一切を放下して天地と一体になって生きることをいう。 |
丹羽廉芳 静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。 1930年東京帝国大学文学部卒業。 清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任 1955年洞慶院住職。 1960年永平寺東京別院監院。 1976年永平寺副貫主。 1985年1月、永平寺77世貫首に就任。 1993年9月7日、遷化。享年89。 |
H27.6 寺務室 R04.03 寺務室 |
|
老梅花 | 丹羽廉芳 静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。 1930年東京帝国大学文学部卒業。 清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任 1955年洞慶院住職。 1960年永平寺東京別院監院。 1976年永平寺副貫主。 1985年1月、永平寺77世貫首に就任。 1993年9月7日、遷化。享年89。 |
R3.2 寺務室 |
||
福寿 | 丹羽廉芳 静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。 1930年東京帝国大学文学部卒業。 清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任 1955年洞慶院住職。 1960年永平寺東京別院監院。 1976年永平寺副貫主。 1985年1月、永平寺77世貫首に就任。 1993年9月7日、遷化。享年89。 |
R2.9 寺務室 |
||
無心 | 丹羽廉芳 静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。 1930年東京帝国大学文学部卒業。 清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任 1955年洞慶院住職。 1960年永平寺東京別院監院。 1976年永平寺副貫主。 1985年1月、永平寺77世貫首に就任。 1993年9月7日、遷化。享年89。 |
R02.06 寺務室 |
||
和 |
丹羽廉芳 静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。 1930年東京帝国大学文学部卒業。 清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任 1955年洞慶院住職。 1960年永平寺東京別院監院。 1976年永平寺副貫主。 1985年1月、永平寺77世貫首に就任。 1993年9月7日、遷化。享年89。 |
H29.5 寺務室 R05.11 寺務室 |
||
和 |
丹羽廉芳 静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。 1930年東京帝国大学文学部卒業。 清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任 1955年洞慶院住職。 1960年永平寺東京別院監院。 1976年永平寺副貫主。 1985年1月、永平寺77世貫首に就任。 1993年9月7日、遷化。享年89。 |
H29.6 事務室 R05.03 寺務室 |
||
丹羽鐵山 | ||||
随縁(ずいえん) | 丹羽鐵山老師本葬の記念品としていただいたもの。 以下は色紙についていた解説。 随縁とは”縁に従う”という意味です。 「縁というものは日々生まれている。その縁に随(したが)うことが肝要である」と、故鐵山方丈は生前中よく話していました。 「”天の時、地の利、人の和”この三つの要素が相重なったとき、物事は成就する。」 縁あって出会った人同士なのだから、お互いを敬い「あなたと私の思いやり」精神で接しなさいと示されました。 (後略) |
丹羽鐵山 大正11年伊豆修善寺町出身。昭和11年清水・一乗寺にて丹羽廉芳に就いて得度。 昭和24年 清水・一乗寺住職 昭和60年 静岡・洞慶院住職 昭和62年 清水・龍雲院兼務住職 平成26年遷化 93才。 |
H27.4 事務室 R03.11 寺務室 |
|
暁天咲 梅一輪 |
丹羽鐵山 大正11年伊豆修善寺町出身。昭和11年清水・一乗寺にて丹羽廉芳に就いて得度。 昭和24年 清水・一乗寺住職 昭和60年 静岡・洞慶院住職 昭和62年 清水・龍雲院兼務住職 平成26年遷化 93才。 |
H31.2 寺務室 |
||
梅花無尽蔵 | 南宋の陸游(りくゆう)の詩に「要識梅花無尽蔵 人人襟袖帯香帰」とある | 丹羽鐵山 大正11年伊豆修善寺町出身。昭和11年清水・一乗寺にて丹羽廉芳に就いて得度。 昭和24年 清水・一乗寺住職 昭和60年 静岡・洞慶院住職 昭和62年 清水・龍雲院兼務住職 平成26年遷化 93才。 |
R2.2 事務室 | |
秦慧玉 | ||||
松有歳(?)寒心 永平玉八十五叟 |
秦慧玉(明治29(1896)~昭和60(1985)) 永平寺76世 |
H30.2 寺務室 |
||
竹密不妨流水過 永平玉八十五叟 |
竹密にして流水の過ぐるを妨げず | 秦慧玉(明治29(1896)~昭和60(1985)) 永平寺76世 |
H29.8 8月31日事務室 R05.07 寺務室 |
|
梅花新發旧千枝 永平玉八十五衲 |
秦慧玉(明治29(1896)~昭和60(1985)) 永平寺76世 |
H27.02 寺務室 R4.02 寺務室 |
||
寿山萬丈高 (じゅざん ばんじょう たかし) |
寿山とは 中国の西安(昔の長安)の南に位置する終南山(南山)の事。 南山は 隠遁者や求道者が多く隠棲した場所で 堅固で不動のもの 長寿や業が長久であること象徴とされ 祝語として好んで用いられる。 その寿山が 高きこと万丈であるということから その長寿や長久の目出度さを更に強調している。 |
秦慧玉(明治29(1896)~昭和60(1985)) 永平寺76世 |
H30.11 寺務室 |
|
(秦)黙道慧昭 | ||||
只個眞金不混沙 | 従容録 第九則「南泉斬猫」の話に 「只箇眞金不混沙」 とある。 「混砂のような俗僧達の中にあって黄金のように光っている」 |
(秦)黙道慧昭(1862(文久2)~1944(昭和19)) 百不能と雅号す、江戸の人。 6歳品川天竜寺秦慧芳に投じ、師の兵庫長松寺転住に従い、同寺にて得度。 曹洞宗専門本校に学び、永平寺に安居、立身し、久我環渓、長森良範に随侍。ついで可睡斎の西有穆山に参じたが、病気のため帰山。29歳、長松寺の師席を継ぎ、消失後の同寺を復興、再び可睡斎で参究。宮津の智源 寺、般若林の福昌寺に転住、般若林専門僧堂を開いて育英に務む。 昭和8年、永平寺68世貫首に就任。 昭和19年、東京田中寺の梅樹室にて入寂。世寿83歳。勅謚大規正信禅師。 |
H2711 事務室 R0405 事務室 |
|
但識琴中趣那奔絃上声 | 「晋書・陶潜伝」に 性不解音、而蓄素琴一張、弦徽不具、 毎朋酒之會、則撫而和之、 曰「但識琴中趣、何労弦上聲」 (陶淵明の本来の性質は音楽を理解しなかったが、飾りのない琴を一張たくわえていた。その琴には弦も徽もなかった。親友と飲む集いのたびに、いつもその琴を撫でながらこれに和し、言った。「琴中の趣を知ってさえいれば、どうして弦の出す音に煩わされることがあろうか」) とある。 |
(秦)黙道慧昭(1862(文久2)~1944(昭和19)) 百不能と雅号す、江戸の人。 6歳品川天竜寺秦慧芳に投じ、師の兵庫長松寺転住に従い、同寺にて得度。 曹洞宗専門本校に学び、永平寺に安居、立身し、久我環渓、長森良範に随侍。ついで可睡斎の西有穆山に参じたが、病気のため帰山。29歳、長松寺の師席を継ぎ、消失後の同寺を復興、再び可睡斎で参究。宮津の智源 寺、般若林の福昌寺に転住、般若林専門僧堂を開いて育英に務む。 昭和8年、永平寺68世貫首に就任。 昭和19年、東京田中寺の梅樹室にて入寂。世寿83歳。勅謚大規正信禅師。 |
R1.5 寺務室 |
|
古川大航 | ||||
寿 妙心90叟 |
古川大航(明治4年(1871)年~昭和43年(1968))臨済宗 明治17年静岡県興津の清見寺に入り、得度 明治25年から妙心寺で修業を積み 大正6年清見寺住職となる 昭和7年臨済宗務総長 昭和12年臨済宗妙心寺派中国開教総監 昭和27年臨済宗妙心寺派第22代管長に就任 |
H29.01 寺務室R05.01 寺務室 | ||
宮崎奕保 | ||||
賓主歴然 | 賓主歴然(ひんじゅれきねん) 「臨済録」に出てくる言葉です。 賓とは客であり、主とは主人の事で、その区別が歴然としている。主人はあくまでも主人であり、客人はどこまでも御客様です。主体と客体との区別は何時の時代でも守るべき倫理でしょう。 しかし禅の修行に於いては「ある時は主になり、またある時は客になる。何時でも主にもなることが出来、反対に何時でも賓になる事も出来る。心の自由さであり、更に主の心もわかり、且つ又賓の心も理解出来る」 という賓主互換(ひんじゅごかん)、即ち自己主張も大切であるが、同時に相手の思いも尊重せよ。という教えです。 そこまで会得してようやく「賓主歴然」と大きい声で言えるのです。 |
宮崎奕保 兵庫県加西市出身。加古川市の福田寺で得度し、駒澤大学専門部卒。 1929年 福田寺住職。 1946年 永平寺単頭。 1976年 札幌市中央区の中央寺住職。 1981年 永平寺監院。 1985年 同寺副貫首。 1993年 9月永平寺第78世貫首に就任。 2008年1月5日 享年108(満106歳没)にて遷化。 |
H27.3 寺務室 R03.09 寺務室 |
|
常転法輪 |
転法輪(法輪を転ず)とは、お釈迦さまが説法して人々の迷いを砕く様子を、戦車が進んでいって敵を破ることにたとえたもの。 お釈迦さまは今でも、様々な形をとおして、常に説法していらっしゃるのだ、という意味か。 |
宮崎奕保 兵庫県加西市出身。加古川市の福田寺で得度し、駒澤大学専門部卒。 1929年 福田寺住職。 1946年 永平寺単頭。 1976年 札幌市中央区の中央寺住職。 1981年 永平寺監院。 1985年 同寺副貫首。 1993年 9月永平寺第78世貫首に就任。 2008年1月5日 享年108(満106歳没)にて遷化。 |
H29.11 寺務室 R05.12 寺務室 |
|
「承陽」 | 「承陽」は、曹洞宗の開祖道元禅師の諡号。 9月22日(旧暦 建長5年8月28日)にちなんで。 |
宮崎奕保 兵庫県加西市出身。加古川市の福田寺で得度し、駒澤大学専門部卒。 1929年 福田寺住職。 1946年 永平寺単頭。 1976年 札幌市中央区の中央寺住職。 1981年 永平寺監院。 1985年 同寺副貫首。 1993年 9月永平寺第78世貫首に就任。 2008年1月5日 享年108(満106歳没)にて遷化。 |
H30.9 寺務室 |
|
渡辺玄宗 | ||||
修徳立身 | 渡辺玄宗(1869~1963) 1869年(明治2年)新潟県三島郡日吉村鳥越(現、長岡市)の農家青柳家の次男に生まれる。 1892年(明治25年)長野県佐久市泉龍寺の渡邊俊龍に就いて得度。 1902年(明治35年)富山県報恩寺住職 富山市光厳寺住職 1927年(昭和2年)大乗寺に入って復興させ、永平寺副監院、同後堂を歴任。 1935年(昭和10年) 興禅寺 (横浜市)開山 1943年(昭和18年)總持寺西堂 1944年(昭和19年) 總持寺独住17世貫首 1957年(昭和32年)總持寺祖院に移る。 1963年(昭和38年)總持寺祖院にて遷化。 |
H30.12 寺務室 R06.09 寺務室 |
||
その他 | ||||
竹影拂階不動塵 月穿潭底無跡水 |
「菜根譚」に、 「古徳伝、竹影掃階塵不動、月輪穿沼水無痕。 吾儒伝、水流任急境常静、花落雖頻意自閑。 人常持此意、以應事接物、身心何等自在。 」 (古徳伝う、「竹影、階を掃うも塵動かず。月輪、沼を穿つも水に痕なし」と。吾が 儒云う、「水流、急に任せて境常に静かなり。花、落つること頻りなりといえども意 おのづから閑なり」と。人常にこの意を持して、以って事に応じ物に接すれば、心身なんらの自在ぞ。) とある。 昔の名僧が言っている。「竹の影が縁先を掃くが、塵は少しも動きはしない。月の光が沼の底までさしこむが、水に跡を残しはしない」と。 わが国の儒者も言う。「水が激しく流れていても、あたりは常に静かである。花がしきりに落ちるけれども、それを眺めている心は自然にのどかになる」と。 こんな気持ちであらゆる事に対処できれば、なんと身も心ものびのびすることであろう。 |
「如是庵」とあるが不明 | H27.8 事務室 R05.04 新庫裏 |
|
道元禅師弾虎之図 | この図は、滋賀県大津市・青龍寺に伝わるもので、「弾虎の図」「虎はねの図」といわれている。 道元禅師が中国留学中の話。 中国の江南地方のある村で、人々を苦しめる猛虎がいた。そのため村では作物が作れず、旅人も近づけず、村は荒れ果ててしまった。たまたま道元禅師がその村を通られたとき、やはり猛虎が現れた。猛虎が道元禅師に襲いかかろうとした時、道元禅師は持っていた柱杖を虎に投げつけ、近くの岩の上に虎を避けて坐された。虎は柱杖に噛みついたかと思われたが、思いもよらず虎は逃げ去ってしまった。よく見れば道元禅師が坐したのは岩ではなく、柱杖が龍と化したその頭上であった。猛虎は二度と人々の前に現れなかった。人々は不思議に思い、このことを図に画き尊祟していたのである。 道元禅師が災難を除かれた因縁により、古来より、この図には災難よけの信仰があり信仰があり、縁起の良い図といわれている。 |
H27.12 事務室 R03.10 寺務室 |
||
「浄心」 永平後堂道○ |
H30.6 寺務室 R06.04 寺務室 |
|||
大慈悲 | R02.07 寺務室 |
|||
アルボムッレ・スマナサーラ | ||||
"Cittena niyati loko" What you think is what you are. (この世は心によって導かれている。 人格とはその人の想いの結果である。) |
Cittena niyati loko cittena parikissati, Cittassa ekadhammassa sabb'eva vasam anvagu. (人は心に導かれ、心に支配されている。こころというたった一つのものにすべての生命が従っている) |
アルボムッレ・スマナサーラ(Alubomulle Sumanasara)1945年生まれ。 スリランカ出身の僧侶。スリランカ上座仏教長老であり、スリランカ上座仏教シャム派の日本大サンガ主任長老、日本テーラワーダ仏教協会長老、スリランカ・キリタラマヤ精舎住職。日本において仏教伝道、および瞑想指導を行う。 |
H28.5 事務室 | |
泉重千代 | ||||
開ん祈願 ん |
当時、ギネスブックに世界最高長寿で認定された泉重千代氏が、120歳の「大還暦」を記念し、開運を祈念して書いたもの。 |
泉重千代 1880年(又は1865年8月20日?) - 1986年2月21日) 鹿児島県徳之島(大島郡伊仙町)出身の男性で、1995年までギネスブック公認の人類の世界最長寿、2012年まで男性としての世界最長寿とされていた。 慶応元年6月29日(1865年8月20日)生まれの120歳とされてきたが、現在は明治13年(1865年)出生の105歳だったとされる。 |
H29.2 事務室 | |
柳家小さん(5代目) | ||||
賛 水急不流月 画 富士見西行図 |
水急不流月「みずきゅうにしてつきをながさず」 急流に映る月影は流れ去ることはない。あわただしい日常にありながら、変わらぬ真理の姿をあらわしたもの。 |
柳家小さん(5代目)(1915年1月2日 - 2002年5月16日) 長野県長野市出身の落語家、剣道家。本名は小林 盛夫(こばやし もりお) 1995年、落語家として初の人間国宝に認定された。 |
H29.10 事務室 |