平成16年の門前掲示板



平成16年12月の門前掲示

知って行(おこな)わざるは 知らざるに同じ

 「わかっちゃいるけど やめられない」なんて歌がありましたが、やめられないのなら、わかっていないと同じです。

 かつて、唐の道林という禅師は、詩人白居易(白楽天)に「仏の教えで一番大切な事は何ですか?」質問され、「悪い事をせず、善い事をすることだ」と答えたそうです。白居易は、「そんなことだったら3歳の子供だって言えるぞ」と言い返すと、道林は、「3歳の子供でも言えるかもしれないが、80歳の老人でも行う事は出来まい」と切り返したそうです。

 わかっていることを実行するのは大変な事です。でも、「これは悪い事だ」と思う事はすべきではないし、「善い事だ」と思う事はどんどん行動していくべきだと思います。

 

平成16年11月の門前掲示

しない善より する偽善

 インターネット上の巨大掲示板「2ちゃんねる」から発生した言葉です。

 「する偽善」はわかるけど、「しない善」ってなんだろう?と考えましたが、頭で考えているだけで、何も行動を起こさない事を言うのかな。

 学校の国語教科書で「偽善の勧め」という随筆が紹介されていました。フランス文学者渡辺一夫氏の著作です。
 内容は、「とことんまで化けの皮のはがれないように、最後まで、うまく偽善者として生き通すように努力していただきたい」「偽善とは、良い人間、りっぱな人間のふりをし、一生涯りっぱにその仮面をかぶることです。」というものでした。善人のふりをして、裏で悪いことをするのではなく、とことん良いことをしつくす人になることを勧めているのだ。

 さて、先月は、台風・地震と、各地大きな災害に見舞われました。「しない善より する偽善」。協力しましょう。行動しましょう。
 

平成16年10月の門前掲示

善を誇れば善を失い、能を誇れば能を失う  

 江戸時代の医師・儒学者、貝原益軒の言葉です。

 仏教の中にも、似たような教えがあります。仏教徒の戒律「十重禁戒」の第七番目に、「不自讃毀侘戒」(ふじさんきたかい)という戒律があります。
 自分の自慢をしたり、他人の悪口を言ってはいけない、ということです。

 自分が良いことをしたからといって、それを他人に自慢するべきではありません。また、自慢するために、良い行いをする、というのもよくないですね。
 自分の能力(学歴・職業・経歴など)を自慢するのも良くないですね。
 どちらも聞いている方は良い気分にはならないでしょう。
 自慢することで、相手から「あの人には頼みたくない」などと反感を持たれ、頼りにされなくなってしまう、ということになるでしょう。それではせっかくの能力が発揮出来ません。
 このように「自慢」は、良い行いや、持っている才能を失ったと同じだということを貝原さんは言いたいのだと思います。

 良い行いも、持っている才能も、必要なときにさわやかに、さらりとやるのが良いのです。
 

平成16年9月の門前掲示

汝の足元を掘れ そこに泉あり

 先日、東北芸術工科大学教授、赤坂憲雄さんの講演を聞きました。
 赤坂さんの専攻は民俗学・東北文化論。東北一円を聞き書きのフィールドとして、埋もれた歴史や文化を掘り起こしている。現代版柳田国男だ。
 そんな赤坂さんの座右の銘が、この言葉、「汝の足元を掘れ そこに泉あり」だということでした。

 良い言葉だったので、メモしてきました。
 調べると、哲学者ニーチェの言葉のようです。

 この言葉にはいろんな意味が含まれていると思います。

 「足元」とは?
 「掘る」とは?
 「泉」とは?
 

平成16年8月の門前掲示

不老不死 こんなものかと 見る造花

 造花はいつまでもきれいですが、命の輝きがありません。
 「永遠の命」誰もが求めるものかもしれませんが、得てしまったらこんなものかもしれません。

 最近、消防の関係がうるさく、寺で花がら(お墓に供え終わった花ゴミ)などを燃すことが禁止されています。
 私たちの寺では業者を頼んで処分していますが、「花がらは持ち帰る」というルールにした寺院さんも多いようです。
 中には「基本的に造花を供えること」と決めた寺院もあると聞きます。

 私の寺にも造花をお供えしているお墓があります。
 最近の造花はよくできていて、本物と見間違えることもあります。いつまでもきれいで、あまりお参りできない方には最適です。
 しかし、「ご先祖さまに造花をお供えする」というのはいかがなものでしょうか?
 夏場ですぐに腐ってしまったとしても、やっぱり「命の輝きのある」ものをお供えした方がいいのではないのでしょうか?私はそう思います。

 そんなことを言いながら、私の寺の本堂では一部造花を使用していますが...。あくまで使用しているのは「一部」で、生花は絶やさないようにしていますよ。

 


平成16年7月の門前掲示板

にんげんがさき 点数は後

 相田みつをさんの言葉です。
 全文を紹介します

点数

にんげんはねぇ
人から点数を
つけられるために
この世に生まれて
きたのではないんだよ
にんげんがさき
点数は後

みつを


 「点数」といってもいろいろありますね。
 学校のテストの得点も「点数」だし、体操競技も「点数」、交通違反も「点数」で表されますね。

 でもどの「点数」も、人格までを表すことはできませんね。
 「点数」は人間をある決まった一定の視点から見ただけの数字にすぎないのです。
 こんなものに振り回されてしまっていては馬鹿馬鹿しいと思いませんか?

 もっと様々な視点で他人を見ましょう。
 もっと様々な視点で自分を見ましょう。
 

平成16年6月の門前掲示

身に付いたものこそ財産

 「身につけるもの」ではなく「身に付いたもの」です。金品ではなく、自分の身に付いた技術こそが本当の意味で財産である、ということです。

 この言葉は、養老孟司さんの言葉です。

 お金や土地を持っていて、それだけで「幸福」といえるだろうか?
 儲からなくても、自分の持っている技術を活かし一生懸命働く人の方が、ずっと幸福なのでは?
 

平成16年5月の門前掲示

みんなちがって みんないい

 金子みすゞさんの詩の一部です。
 NHK教育テレビで「にほんごであそぼ」という番組がありますが、その番組の中でも紹介されました。

 ここに全文を紹介します。

 わたしと小鳥とすずと

 わたしが両手をひろげても、
 お空はちっともとべないが、
 とべる小鳥はわたしのように、
 地面(じべた)をはやくは走れない。

 わたしがからだをゆすっても、
 きれいな音はでないけど、
 あの鳴るすずはわたしのように
 たくさんなうたは知らないよ。

 すずと、小鳥と、それからわたし、
 みんなちがって、みんないい。


 大河ドラマ「新撰組」。近藤勇を慕う者が集まって一つの集団を作っていくのですが、この構成員はそれぞれみんな個性があります。
 志の高い者、学のあるもの、武術にすぐれた者、世渡りのコツをわかっている者。
 志の高い者ばかりが集まった集団だったり、武術のすぐれた者ばかり、勉強のできる者ばかりが集まってはうまくいかなかったでしょう。
 みんなそれぞれの個性があり、それを発揮したからこそ、「新撰組」が生まれていったのです。

 今は「周囲に合わせながら、勉強だけは一番になるように」という風潮が強いですが、そんなんじゃダメですね。
 みんな自分のそれぞれの個性を存分に発揮してほしいものです。

 私のことを書きますが、私はスポーツが苦手。特にチームプレイのスポーツは全くダメです。
 先日、お坊さん仲間で「スポーツ親睦会」というものが開かれました。フットサルをするそうです。私はもちろん欠席しましたが、周囲からは「何で出席しないの?」という目で見られました。
 苦手なのです。できないのです。そういう気持ちも認めて欲しいのです。その代わり、他の事で自分ができる事はやってます。それでいいじゃん。

 

平成16年4月の門前掲示

桃栗3年柿8年 だるまは9年 俺は一生

武者小路実篤の言葉です。
 「桃栗3年柿8年」というのは、日本の諺で、「桃と栗は芽が出てから3年で実を結び、柿は8年経ってから実を結ぶ。木にはそれぞれ種をまいてから実がなるまでに必要な年月がある。そのように人も、その職業や学問、技芸に応じて必要な年季を入れなければ、成果は期待できないものである」ということ。
 だるまの「9年」というのは、達磨大師が、インドから中国に禅宗を伝えるために、9年間嵩山の少林寺で坐禅を続けたという故事によるもの。
 どちらも「モノになるには大変な時間がかかる」という意味だ。では「俺一生」とは?
 以下は、読売新聞3/23に掲載された「編集手帳」(朝日新聞で言う「天声人語」)の抜粋です。

 「武者小路実篤は毎日のように書を書き、絵を描いたが、ついに上達しなかった。山口瞳は実篤の書画の腕前をそう述べて、だから好きだと言っている。◆「私にとって『勉強すれば上達する』ということよりも、『いくら勉強しても上手にならない人がいる』ということのほうが、遙かに勇気をあたえてくれる」と。◆デビュー以来、1勝もできずに負け続けている高知競馬の8才牝馬ハルウララはどこか、その書画を思わせるところがある。敗れても敗れても懸命に走る姿は、実篤が好んで描いたカボチャやジャガイモのように愚直で温かい。◆(中略)◆若き日のノートに「デッサンは実にへたなり。勉強するつもり」と自作評を記した実篤は、晩年の色紙に書いている。「桃栗3年柿8年だるまは9年俺は一生」。(後略)」

 結果が出なくても、一生懸命にやる姿がいいのです。

平成16年3月の門前掲示

ごみを またいで 通るな

私が中学生だった時の話です。
 中学2年の春、その校長先生は赴任してきました。
 始業式の日、校長先生は、赴任の挨拶の時、「ごみをまたいで通るな」とひとことだけおっしゃり壇をおりました。
 私を含め、全生徒はあまりの挨拶の短さにあっけにとられていました。生徒の中には、「短い挨拶でよかった」という意味で拍手をした人もいました。

 当時、中学生だった私は、「校内をきれいにしろ」という意味くらいにしか取りませんでしたが、今思えば、もっと深い意味があり、それこそが校長先生の思いだったのではないかと考えるようになりました。

 「ごみ」というのは、目に見える「ごみ」ばかりではないのではないか?
 自分の心の中に落ちているゴミ。悪い考えや、面倒な事態。そういうものをまたがず、たちむかっていきなさい、校長先生は、そういう気持ちでこの言葉をおっしゃったのではないのかな。

平成16年2月の門前掲示

相手の気持ちになってみる

 曹洞宗でよくよまれるお経「修証義」のなかに、「四枚の般若」という教えが出てきます。4つの智慧行、つまり、仏教徒として行うべき行動として、布施・愛語・利行・同事の4つを挙げているのです。
 2つ目の「愛語」は、先月の言葉、「やさしい笑顔・やさしい言葉」ということです。
 そして、この4つ目の「同事」というのが、今月の言葉にした、「相手の気持ちになってみる」ということなのです。

 先日、新聞を読んでいたら、静岡県議会で、嫌煙者を保護する条約を制定しようという動きがある、という記事がありました。
 さらに読み進んでいくと、喫煙者の議員から、この議案について「そんなに急ぐ必要はない」「このような条約は必要ない」といったような否定的な声があがっていた、という事が書いてありました。
 嫌煙者を保護する条約なのだから、議員さんは、自分の喫煙・非喫煙に関係なく、嫌煙者の気持ちになって議案を審議すべきなのでは?と思いました。

 政治の世界ばかりでなく、私たちが日常生活を送っている中でも、相手の気持ちを察しながら自分の行動を考えることは大切だと思います。
 親や兄弟、妻や夫、自分の子供、友人、仕事の部下などに対して、自分の事を優先して相手のことを考えずにやってしまったことはありませんか?
 

平成16年1月の門前掲示

やさしい笑顔 やさしい言葉

 お正月です。
 本来、お正月は「修正会(しゅしょうえ)」と呼ばれます。つまり「正しい月」ではなく、「修正する月」なのです。
 1年の間に歪んだり捻れたりした部分を元に戻す、というわけです。

 歪んだり捻れたりした心が、「元に戻ったとき」の気持ちはいかがでしょうか?
 やさしい笑顔になり、他人に対しやさしい言葉をかけたくなってきませんか?
 さわやかで気持ちいいですね。

 お正月が過ぎても、心が歪んだり捻れたりしそうなとき、笑顔とやさしい言葉を心がけてみましょう。きっとのりきれます。
 来年の「修正会」は、今年より心の歪みや捻れが小さくなっていますように。

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