令和3年の門前掲示


令和3年12月の門前掲示


 「失われたものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」


 2021年は東京オリンピック・パラリンピックの年でした。今年最後の言葉は、「パラリンピックの父」ともいわれるルートヴィヒ・グットマン博士の言葉から。
 私たちは持っている物を失うと、いつまでもそのことにとらわれ、「失わなかったら」などと考えてしまいがちですが、失ったものの事についていくら考えてもその多くは返ってくることはありません。ないものはないとして、その中でいかに生きていくかを考えていた方がずっと良いです。






令和3年11月の門前掲示


 「神仏を尊み神仏を頼まず  宮本武蔵」


 2021年は東京オリンピック(五輪)の年でした。五輪ネタでということで、「五輪書」という本の著作がある江戸時代初期の剣術家宮本武蔵の言葉から。
 当然の事ながら宮本武蔵の「五輪書」の「五輪」はオリンピックの事ではなく、剣術の奥義を、密教の五輪(五大)(地 水 火 風 空)になぞらえ、五巻に分けて記したもの。
 そしてまた残念ながら「神仏を尊み 神仏を頼まず」も「五輪書」が出典ではありません。

 さて、宮本武蔵には、決闘に出かける際、ある神社の前を通りかかって武運を祈ろうとしたが、「神仏は崇拝するものであって、利益を願うものではない」と思って、そのまま通過したという逸話があるそうです。まあ武運は祈らなくても、お寺や神社の前横切る際は合掌などして通過していただきたいものですが、この「神仏は崇拝するものであって、利益を願うものではない」という言葉は、私たちも肝に銘じておきたい事です。

 私たちは、願いが叶いますようにとお寺や神社にお願いしがちです。しかし神様仏様は、私たちの思うとおりに取りはからってくれる存在ではありません。もちろん神様仏様が尊い存在であることは間違いないことですし、祈る事は大切ではありますが、やはり最後は自分の努力が結果につながるものだと思います。







令和3年10月の門前掲示


 「カーリングのための人生じゃなく 人生の中の カーリング 本橋麻里」


 2018年の平昌五輪で銅メダルを獲得した女子カーリングのロコ・ソラーレが、今年(2021年)9月に来年(2022年)に行われる北京五輪の日本代表権を獲得しました。
 この言葉は、そのロコ・ソラーレの代表本橋麻里さんの言葉です。

 本橋さんは、トリノ、バンクーバーの五輪に出場しましたが、その頃は、カーリングに全てを賭けてきた人生だったようです。
 しかし、トリノ、バンクーバー両五輪で金メダルを獲得したスウェーデン代表チームは、両大会同じ選手でしたが、トリノの時ひとりだった既婚者がバンクーバーの時には5人全員ママになり、
家庭も試合も楽しんでいる様子だったそうです。
 それを見て、「カーリングのための人生じゃない、人生の中のカーリングだ」と思ったそうです。この考え方は、今のロコ・ソラーレのメンバーにも受け継がれていると思います。

 仏教には、「一水四見」という言葉があります。同じ水でも、私たち人間にとっては飲み水だけど、魚にとっては住む場所だし、視点によっていろいろになるという事です。
 人生においても、何かひとつの考えに集中してしまうと、特に失敗したときなど、つらいものになるでしょう。
 見方を変えてそればかりじゃないよ、と思っていた方が良いと思います。
 「学校のための人生じゃなく、人生の中の学校」、「仕事のための人生じゃなく、人生の中の仕事」と思った方が気持ちが楽になりますよね。






令和3年9月の門前掲示


 「私にできる事を なせば良い」


 この掲示を行った令和3年9月は、アフガニスタンの武装勢力タリバンが首都カブールを制圧した事件が発生しました。

 アフガニスタンと聞いて思い出すのが、1984年からアフガニスタンで人道支援活動に取り組み、2019年に銃撃され亡くなった医師中村哲さんです。
 「私にできる事をなせば良い」は、その中村哲さんの言葉です。

 天台宗を開いた最澄さまが「一隅を照らす、これすなわち国宝なり」という言葉を残しています。「一隅」とは私たちひとりひとりが置かれている場所や立場のことをいうそうです。私たちひとりひとりが置かれた場所や立場で、ベストを尽くして光れば、周囲のが照らされ光り、光の連鎖が生まれます。そのようにして社会全体を照らしましょう、という教えだそうです。中村哲さんの「私にできる事をなせば良い」という考えに合致します。

 今、日本を見ても世界を見ても、多くの人が、様々な支援を求めています。しかし私たちには置かれている場所や立場があり、その人たちを直接助けに行くことはできません。しかし、私たちひとりひとりが、自分たちの持ち場をしっかりと守り、するべきことを行えば、それがまわりまわって、何らかの形で支援を求める人の所に届くことになるでしょう。






令和3年8月の門前掲示


 「報われない努力もある 改めて 体操は面白い」


 掲示をした2021年(令和3年)8月は、東京でオリンピックが開催されていました。
 オリンピック体操競技(鉄棒)の予選演技中に落下し、予選敗退した内村航平選手が、インタビューの中で話した言葉の一部です。
 「報われない努力もある。努力の仕方が間違ってたんだと思う。改めて体操は面白い。人生においてこういうことも大切なんだろうな。」
 とおっしゃっていました。

 仏教の教えに四諦の教え(苦集滅道)があります。
 「苦」とは、「思い通りにならない」という意味です。 生まれてくること、老いること、病気になること、死ぬことは、自分の思い通りにならない事です。
 「集」とは、その原因を探るという事です。仏教では渇愛(欲望)にその原因があるとしています。
 「滅」とは、「コントロールする」という意味です。欲望のコントロールです。
 「道」とは、思い通りにならないことをコントロールする正しい生き方、といった意味です。

 スポーツは、もっと速くもっと高くを目指すものなので、少し考え方は違うかもしれませんが、論法として、内村選手の言葉と、仏教の四諦の考えが似ているな、と感じました。
 報われない努力もある(思い通りにならなかった) 努力の仕方が間違っていた(原因の追及) 改めて体操は面白い(結果は思い通りにならなかったけど、体操を心から楽しむ生き方
 という感じで、ちょっと無理矢理ではありますが、何か仏教に通じる考えかと思い、時事ネタでもありますし、紹介させていただきました。







令和3年7月の門前掲示


 「自分の機嫌は自分で取る。人に取って貰おうとしない」


 「機嫌」はもともと「譏嫌」と書く仏教の言葉だそうです。
 「譏嫌」とは「そしりきらう」の意味で、世間からひんしゅくを受けないように気をつけるようにという僧侶の戒律であったそうです。
 そこから相手や自分の気分の良し悪しという意味にかわっていきました。

 さて、機嫌を悪くして、他人に当たったり、他人にとりなしてもらおうとすることがありますね。
 でもその機嫌の悪さの原因を考えると、例えば自分が夜更かしして眠いとか、自分がやりたくないことをしなくてはならない、とか自分にとって都合の悪いことを言われた、など、
自分に原因があるんですよね。その自分が作った機嫌の悪さを他人に何とかしてしまおうとするのは自分勝手な話ですよね。

 曹洞宗の開祖、道元禅師は、坐禅中の心の持ち方として「心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて、作仏を図ること莫かれ。」と示しています。沸き起こってきた思想に対して、
次々と考えを進めてみたり、何か目的を掲げたりしないようにすることだとおっしゃっているのです。
 自分が受け止めた現象に対し、ああだこうだとこねくり回すのではなく、見えた/聞こえたでストップすれば、心は安定したままです。

 自分の機嫌は自分で取り、人に取らせないようにしたいものです。

DIAMOND online で解説をいただきました。
https://diamond.jp/articles/-/286010






令和3年6月の門前掲示


 「今ある人生 それが全てですな


 朝の連続テレビ小説「おちょやん」からです。
 昭和初期から中期に活躍した喜劇役者浪花千栄子さんをモデルにしたドラマで、主人公「竹井千代」が、様々な苦難を乗り越え力強く生きていく様子を描いたものでした。
 このセリフは、ドラマの終盤、事情があり分かれた元夫(天海一平)と一緒に舞台で芝居をするという場面があり、その中で千代の提案で付け足したものです。このドラマの中では、たびたびドラマの中で起こっていることを、役者として舞台で行うお芝居に投影させて演じるという手法がとられていて、このセリフも、その時の竹井千代と天海一平の様子を表していたものといえます。

 「もし、あのまま私ら一緒にいてたらどないな人生があったやろか」
 「そないなこと、考えてもしゃあないがな」
 「そうですな。今ある人生、それがすべてですなあ」

 私たちは、過去にもどってやり直すことはできません。「ああしていたら こうしていたら」と考えても、それはどうしようもない事です。
 また、もし過去に戻ったとしても、結局同じ選択をすると思うのです。今振り返るとまずいと思う選択であっても、その時としては最善の選択をだったはずだと私は思うのです。

 あとから後悔のないように、今を全力で生きて、今ある人生が全てなんだなぁと思える生き方をしたいものです。









令和3年5月の門前掲示


 「自分に欠けているものを 嘆くのではなく 自分の手元にあるもので 大いに楽しむ者こそ 賢者である」 古代ギリシャの哲学者 エピテトス


 仏教に「小欲知足」という教えがあります。欲を少なく、足りていると感じる、という事です。
 これは我慢辛抱をしなさい、という事ではなく、自分にとってホントウに何が必要で何が不要かをきちんと判断すれば、そんなに欲張る必要はないはずだよ、という教えです。
 私たちは、いつもあれが欲しいこれが欲しいと欲求欲望に満ちた生活をしがちですが、改めて考えてみるとそれらは本当に必要なものなのでしょうか。実は現状にあるもので充分なのではないのでしょうか。

 さて今はコロナ禍で、いろいろな行動が制限されています。あれができないこれができないと嘆くのではなく、この状況の中でもできることを探し、それで充分楽しむようにしたいものです。






令和3年4月の門前掲示


 「ああなんて素敵な日だ 幸せと思える今日も 夢やぶれ挫ける今日も」 Mrs. GREEN APPLE - 僕のこと


 ロックバンド「Mrs. GREEN APPLE」さんの「僕のこと」という楽曲の歌詞からです。

 仏教には「日日是好日(にちにちこれこうにち)」という言葉があります。
 これは「毎日いい日が続いてけっこうなことだ」という意味ではなく、「一日一日がかけがえのない大切な日だ」、という意味です。
 私達は、天気や、お金が儲かった・損をした、よいことがあった・嫌なことがあったなど、そのような理由で「今日は良い日だった」「悪い日だった」と考えがちです。しかしこれは優劣・損得・是非にとらわれた考え方です。
 日々是好日とは、そのようなこだわり、とらわれをさっぱり捨て切って、その日一日をただありのままに生きる、清々しい境地を示しています。

 禅では、過ぎてしまったことにいつまでもこだわったり、まだ来ぬ明日に期待したりしません。
 目前の現実が喜びであろうと、悲しみであろうと、ただ今、この一瞬を精一杯に生きる。
 その一瞬一瞬の積み重ねが一日となれば、それは今までにない、素晴らしい一日となるはずです。






令和3年3月の門前掲示


 「磨いても磨いても光らなかった でも腕力はついた 」 


 奈良県唯称寺さまの掲示板の言葉からです。

 受験生の方は、そろそろ合格発表も終わり、進学先が決まったことでしょう。
 希望の進学先に進めなかった人は「今までの努力が無駄になった」などと思ってしまうかもしれませんが、進学先が思い通りにならなかっただけであり、今まで学習してきたことが消えてしまうわけではありません。学習したことはしっかりあなたの身についているはずです。また、「目標に向かって努力する力」もついたはずです。
 希望の進学先に行けなくても、学習の内容、努力の事実は消えませんし、将来役に立つときがきます。

 勉強ばかりでなく、仕事や習い事なども、頑張っても結果として認められない事もあります。そのような事の方が多いです。でもがんばった事実が消えることはありません。日々精進したいものです。


公益財団法人仏教伝道協会主催
「輝け!お寺の掲示板大賞2021」にて
「寺子屋ブッダ賞」を頂きました

「輝け!お寺の掲示板大賞2021」受賞作品 

DIAMOND online での受賞作品の解説






令和3年2月の門前掲示


 「仏教で『滅』は『コントロール』の意 私の心の鬼は 滅(コントロール)できているだろうか」 


 2月15日は、涅槃会(ねはんえ)といって、お釈迦様が「入滅」(にゅうめつ。なくなった日)された日です。

 「入滅」の「滅」と、節分の「鬼」にちなんで、この言葉を書いてみました。
 (ちなみに私は今流行のアニメ映画「鬼滅の刃」はまだ観ていません)

 仏教の教えのひとつに「苦集滅道」があります。
 「苦」とは、「思い通りにならない事」を意味します。(「苦しい」の意味ではない)
 「集」とは、「苦」の原因に関する真理をいいます。原因を自己の内部に見いだそうという事です(煩悩)。
 「滅」とは、「抑え込む、制御、コントロール」の意味です。「苦」の原因である煩悩をコントロールしなさい、という事です。(なくす・消滅させるの意味ではない)
 「道」とは、煩悩をコントロールする方法(八正道。 正見 正思惟 正語 正業 正命 正精進 正念 正定)を示しています。

 今年大学生になった息子が、私が節分の豆まきをしている横で、「『鬼は外』なんて言わずに、鬼とうまくつきあうようにすれば良いのにねぇ」と言っていましたが、まさにその通りで 心の中の鬼である、愚痴の心、妬みの心といかに共存しいかにコントロールするか、それが大切な所だと思います。今流行している新型コロナウィルスについても、完全に排除することを考えるばかりでなく、いかに共存しコントロールしていくかを考えていきたいものです。







令和3年1月の門前掲示


 「一日に 一字学べば 三百六十字 吉田松陰」 


 吉田松陰の言葉です。「一日一字を記さば、一年にして三百六十字を得、 一夜一時を怠らば、百歳の間三万六千時を失う」とあります。

 どんなに小さな事でも、毎日続ける事で、大きな効果を得ることができます。
 一日にたったひとつ覚えるだけでも、一年後には365個の事を覚えることができるのです。
 新年を迎えました。なにか新しいことを少しずつで良いので挑戦してみてはいかがでしょう。






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