鳳林寺の宝物

令和 2年 6月の展示


写真 読み方 意味・いわれなど 作者紹介 備考
若無有限之心
自有無窮之福
典座教訓に
「若無有限之心。自有無窮之福。蓋是供衆住持之心術也。」
(若し有限の心無んば,自ら無窮(むきゅう)の福有らん。蓋(けだ)し是れ衆に供(ぐう)ずるは住持の心術なり。)
とある。
(鷹林)吹毛冷生
名古屋市福寿院9世、
名古屋市法持寺29世、
甲州長生寺37世、
甲州慈照寺30世、
大本山永平寺後堂より監院。
明治31(1898)年示寂。67歳。
白鳥鼎31嗣
H25.05 本堂
R02.06 本堂
(四国八十八ヶ所宝印軸)
R2.4~6 客間
無心
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。
R02.06 寺務室


掛け軸
写真
読み方
意味・いわれなど
作者紹介
備考
作者名 あ~お
鶴舞 愛新覚羅溥傑(1907年4月16日 ~ 1994年2月28日)

愛新覚羅溥儀の実弟。
H31.1.1~3.31 客間
「禅定為屋宅」

為禅明学徒 如水澹主人書
為書にある「禅明」は、鳳林寺四世。

「持戒為平地 禅定為屋宅 能生智慧光 次第得明照」
(持戒を平地となし、禅定を屋宅となし、能く智慧の光を生じて、次第に明照を得)とある
(青島)興庵恵宗(1834~1904)
曹洞宗
石雲院独住5世
焼津林叟院30世
静岡長福寺3世
源昌寺12世
光泰寺18世
H27.6.1~6.15 本堂
隠逸林中無栄辱、道義路上無炎涼。

隠逸(いんいつの)林中(りんちゅう)に栄辱(えいじょく)無く、道義(どうぎ)の路上(ろじょう)に炎涼(えんりょう)無し。
「菜根譚」より。

俗世間を離れた生活は、栄光や屈辱と関係無く、道理や正義に則った生活は、燃えたり冷めたりという感情の起伏と関係ない。
つまり、活人は感情が一喜一憂するようなことから離れ、大安心の心で暮らしなさいと言っているのだろう。
言い換えれば、達人の人生は、淡々と暮らすことが最高の暮らし方ということだろう。
(青島)興庵恵宗(1834~1904)
曹洞宗
石雲院独住5世
焼津林叟院30世
静岡長福寺3世
源昌寺12世
光泰寺18世
H26.7.16~7.31 本堂
梅開早春 青山俊董
昭和8年(1933年)愛知県一宮市生まれ。
5歳で長野県塩尻市の曹洞宗無量寺に入門。
15歳で得度し、愛知専門尼僧堂で修行。
駒澤大学仏教学部、同大学院修了。
曹洞宗教化研修所を経て、愛知専門尼僧堂勤務。
昭和51年、愛知専門尼僧堂堂長。
昭和59年 特別尼僧堂堂長。正法寺住職。無量寺住職。
H27.1 事務室
煙水(えんすい) 従容録第12則に 「濯足滄浪煙水秋」とある。 (秋野)大忍孝道 (1858(安政5)~1934(昭和9))
 韓大忍。黙照円通禅師。
 静岡の人。文久3年静岡長興寺にて出家し、明治5(1872)年、
伊藤慶道について得度。
 明治13年(1880)浜松天林寺専門支校に入り翌年同支校学監となった。
 同年、師兄加藤玄裔に嗣法し、明治15年、駒込吉祥寺曹洞棟専門本校
に入学する。
 明治19(1886)年卒業し、同年より西有穆山について13年間「正法眼蔵」
を研究する。
 明治22(1889)年静岡天徳寺に入山する。
 明治38(1905)年、永平寺後堂
 明治39(1906)年、永平寺眼蔵会講師
 明治40年(1907)、大洞院に転住
 明治42年曹洞宗大学長
 大正5年可睡斎に転住。
 昭和4年總持寺貫首に就任、昭和9年示寂。世寿77歳
H27.6.16~6.30 本堂
箱根湖畔緑陰繁
幾到軽煙散又存
鶯鳥頻歌三○節
見聞一一別乾坤

昭和己巳夏箱根避暑筆作 萬松山人孝道

昭和己巳は、昭和4(1929)年。
(秋野)大忍孝道 (1858(安政5)~1934(昭和9))
 韓大忍。黙照円通禅師。
 静岡の人。文久3年静岡長興寺にて出家し、明治5(1872)年、
伊藤慶道について得度。
 明治13年(1880)浜松天林寺専門支校に入り翌年同支校学監となった。
 同年、師兄加藤玄裔に嗣法し、明治15年、駒込吉祥寺曹洞棟専門本校
に入学する。
 明治19(1886)年卒業し、同年より西有穆山について13年間「正法眼蔵」
を研究する。
 明治22(1889)年静岡天徳寺に入山する。
 明治38(1905)年、永平寺後堂
 明治39(1906)年、永平寺眼蔵会講師
 明治40年(1907)、大洞院に転住
 明治42年曹洞宗大学長
 大正5年可睡斎に転住。
 昭和4年總持寺貫首に就任、昭和9年示寂。世寿77歳
H27.7 本堂
「寿」 (浅野)大忍哲禅( ~1990)
明治30年愛知県に生まる。
昭和12年大本山総持寺単頭
昭和16年大洞院独住第9世。

能登大本山総持寺祖院西堂
H28.1 本堂
雲行観自在
水流不動尊
(浅野)大忍哲禅( ~1990)
明治30年愛知県に生まる。
昭和12年大本山総持寺単頭
昭和16年大洞院独住第9世。

能登大本山総持寺祖院西堂
H29.9 事務室
関 不許○○ (浅野)大忍哲禅( ~1990)
明治30年愛知県に生まる。
昭和12年大本山総持寺単頭
昭和16年大洞院独住第9世。

能登大本山総持寺祖院西堂
R1.8 寺務室
山遠水長西又東
青鞋破笠踏音風
鳥藤七尺知○意
萬里竹在一歩中
昭和甲寅秋日録古人語
「昭和甲寅」は、昭和49(1974)年 (浅野)大忍哲禅( ~1990)
明治30年愛知県に生まる。
昭和12年大本山総持寺単頭
昭和16年大洞院独住第9世。

能登大本山総持寺祖院西堂
R1.9 寺務室

日々是好日
(にちにちこれこうにち)
(ひびこれこうじつ)

『碧巌録』第六則「雲門十五日」の本則に「雲門垂語云。十五日已前不問汝。十五日已後。道将一句来。自代云。日日是好日」とある。
雲門とは、中国の唐未から五代にかけて活躍された雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師の事。
毎日いい日が続いてけっこうなことだ、などといった浅い意味ではありません。
私達は、今日はよい日だ悪い日だという場合、天気だけでなく、お金が儲かった・損をした、よいことがあった・嫌なことがあったなど、そんなものさしで判断します。
しかし、これは優劣・損得・是非にとらわれた考え方です。
日々是好日とは、そんなこだわり、とらわれをさっぱり捨て切って、その日一日をただありのままに生きる、清々しい境地です。
たとえば、嵐の日であろうと、何か大切なものを失った日であろうと、ただひたすら、ありのままに生きれば、全てが好日こうにちなのです。
禅では、過ぎてしまったことにいつまでもこだわったり、まだ来ぬ明日に期待したりしません。
目前の現実が喜びであろうと、悲しみであろうと、ただ今、この一瞬を精一杯に生きる。
その一瞬一瞬の積み重ねが一日となれば、それは今までにない、素晴らしい一日となるはずです。

寄贈者:青木一枝さま
(朝比奈)円覚宗源(1891(明治24)~1979(昭和54))

臨済宗の僧。
水戸黄門、大岡越前など、時代劇の題字を手がけたことでも知られている。

京都妙心寺などで修行し,鎌倉浄智寺住持をへて
昭和17年円覚寺貫主。
昭和20年円覚寺派管長。
昭和54年8月25日死去。88歳。
R1.6 本堂
"Cittena niyati loko"
What you think is what you are.

(この世は心によって導かれている。

人格とはその人の想いの結果である。)


Cittena niyati loko cittena parikissati,
Cittassa ekadhammassa sabb'eva vasam anvagu.

(人は心に導かれ、心に支配されている。こころというたった一つのものにすべての生命が従っている)
アルボムッレ・スマナサーラ(Alubomulle Sumanasara)1945年生まれ。
スリランカ出身の僧侶。スリランカ上座仏教長老であり、スリランカ上座仏教シャム派の日本大サンガ主任長老、日本テーラワーダ仏教協会長老、スリランカ・キリタラマヤ精舎住職。日本において仏教伝道、および瞑想指導を行う。
H28.5 事務室
開ん祈願
 ん
当時、ギネスブックに世界最高長寿で認定された泉重千代氏が、120歳の「大還暦」を記念し、開運を祈念して書いたもの。
泉重千代

1880年(又は1865年8月20日?) - 1986年2月21日)
鹿児島県徳之島(大島郡伊仙町)出身の男性で、1995年までギネスブック公認の人類の世界最長寿、2012年まで男性としての世界最長寿とされていた。
慶応元年6月29日(1865年8月20日)生まれの120歳とされてきたが、現在は明治13年(1865年)出生の105歳だったとされる。

H29.2 事務室
寬心應是酒
(心を寛うするは應に是れ酒なるべし)
杜甫の詩に

花飛有底急  
老去願春遲  
可惜歡娯地  
都非少壯時  
寬心應是酒  
遣興莫過詩  
此意陶潛解  
吾生後汝期  


花の飛ぶこと底(なん)の急か有る
老い去っては春の遲きことを願ふ
惜しむべし歡娯の地
都て少壯の時に非ず
心を寛うするは應に是れ酒なるべし
興を遣るは詩に過ぐるは莫し
此の意陶潛解す
吾が生汝が期に後れり


とある
伊佐如是(1809~1891)
江戸の人。
名は岑満、通称は新次郎、字は樓卿、号を如是と称し、
幕府の徒目付・具足奉行・海軍奉行などを歴任し、
駿府の牧之原開墾に尽力した旗本で、
下田奉行頭取としてアメリカ人ハリスの交渉役を務め、
唐人お吉をハリスに世話した人物として有名である。
亦、漢籍を岡本况齋に、書法を小島成齋に学び、
和歌にも優れた文化人で、
晩年は谷口原付近の子弟に漢学や書を教授し、
優れた能書家でもあり、
幕末三舟(海舟・鐵舟・泥舟)の書の師としても
知られている。
H28.5 本堂
守拙

總持勝俊叟
菜根譚に
「文以拙進、道以拙成、一拙字有無限意味」

(文は拙を以て進み、道は拙を以て成る。拙の一字、無限の意味あり)とある
岩本勝俊(~1979)
昭和9年 吉祥寺43世
昭和42年 總持寺19世
H30.5 寺務室
行亦禅 坐亦禅 「證道歌」に、

行亦禪坐亦禪、 ぎょうもまたぜん、ざもまたぜん
語默動靜體安然。ごもくどうじょう たいあんねん
縱遇鋒刀常坦坦、たとひほうとうにあふとも つねにたんたん
假饒毒藥也間間 たとひ どくやくもまたかんかん

とある。
歩くことも禅であり、坐することも禅である。語るときも黙するときも動いているときも静かにしているときもその姿は安らかだ。たとえ刀の切っ先を突きつけられても平気である。またたとえ毒薬を盛られても気にしない。


箱裏に「記念 贈 人権擁護推進員 平尾賢明師 平成二年十二月吉日 曹洞宗第一宗務所 所長 大島賢龍 箱書」 とある。

昭和62年~平成2年、鳳林寺第六世賢明和尚が、静岡県第一宗務所人権擁護推進員の役職をさせていただいていた。平成2年12月、当時の宗務所長大島賢龍老師から記念にいただいたもの。

(梅田)快光信隆(1906(明治39)~1996(平成8))
福岡県糸島郡二丈町生、福岡市東林寺梅田隆全に嗣法する。
駒澤大学、九州大学印度哲学科を卒業。
福岡禅覚寺13世、 東林寺18世
昭和57年10月、總持寺独住21世。
H25.9.1~9.15 本堂
喫茶去(きっさこ) 「去」の字は喫茶の強調の助辞であり、去るという意味はない。「お茶を一服如何ですか」とか「どうぞお茶でも召し上がれ」と云う意味。

 中国唐時代の有名な禅僧の趙州和尚の話である。
 その趙州和尚のもとに修行僧が教えを頂きたいとやって来た。 
趙州「曽(か)って此間(すかん)に到るや」(お前さんはかってここに来たことがおありかな?) 
僧 「曾(か)って到る」(はい、以前にも参りました) 
趙州「喫茶去」(さようか、ならばお茶でも一服おあがりなさい)
またあるとき別の修行僧がやって来た。
趙州「曾(かって)到るや」
僧 「曾(かって)到らず」(いいえ、ここに来たことはありません)
趙州「喫茶去」(左様か、ならばお茶でも一服おあがりなさい)
 これを聞いていたこの寺の院主は「和尚は曾ってここに来た者にも、はじめての者にも“お茶をどうぞ”と同じことをいわれるがどういうわけなんですか?」とたずねた。
趙州は是れに答えず「院主さん!」と呼ぶ。院主は思わず「はい」と
答えたその瞬間、趙州はまた「喫茶去」(まあ、お茶でも一服召し上がれ)
 このとき院主は、はっと悟ったという。このなぜ悟ったかの追体験がこの禅問答の意図である。それぞれ立場の違う三人に対し、ただ「喫茶去」と云って接したのは趙州の相対する分別、取捨、過去・現在、あちら・こちらと分かつ一切の意識を断ち切った、絶対の境地のあらわれに他ならない。そこには、凡聖、貴賎、男女、自他等の分別は無く一切の思量の分別の無い無心の境地からの「喫茶去」なのだ。
 私たちは往々にして、好きな人や、金持ちや身分の高い人が来れば丁重にもてなし、嫌いな人や貧しい人にはいい加減な対応をしてしまいがちである。分別を入れず、誰に対しても計らい無く、真心から接して行きたいものである。
(梅田)快光信隆(1906(明治39)~1996(平成8))
福岡県糸島郡二丈町生、福岡市東林寺梅田隆全に嗣法する。
駒澤大学、九州大学印度哲学科を卒業。
福岡禅覚寺13世、 東林寺18世
昭和57年10月、總持寺独住21世。
H28.6 事務室
R1.7 事務室
「莫妄想」(まくもうぞう)  汾陽無業禅師(760~821)の言葉で、無業禅師は、一生の間、修行僧の質問に、ただ「莫妄想」の一句をもって答えたとされています。禅師はまた、もし、人がこの一句をよくよく徹しきったならば、元から具有している智慧や徳相が、たちまちに現前するだろう、と示しています。

 仏教的な「妄想」とは、「二見にわたる分別心」をいいます。「莫」は、ない、ということです。
 人は、「損・得」「長・短」「清潔・不潔」「善・悪」「明・暗」など、物事を二つの事象に分けて認識したがりますが、その境目はどこでしょう?そう、境目などないのです。それに気づきなさい、分け目を取り払いなさい、ということなのでしょう。
(梅田)快光信隆(1906(明治39)~1996(平成8))
福岡県糸島郡二丈町生、福岡市東林寺梅田隆全に嗣法する。
駒澤大学、九州大学印度哲学科を卒業。
福岡禅覚寺13世、 東林寺18世
昭和57年10月、總持寺独住21世。
H30.8 寺務室

青山緑水 青い山と緑の水。雄大な自然の情景。
天地神羅万象との調和を意味している。
人間はすべての生き物と同じように大自然の中に
生かされているということを感じ、
奢り高ぶった気持ちが起きた時は、
この言葉と共に大自然に触れる事が大事。
(梅田)快光信隆(1906(明治39)~1996(平成8))
福岡県糸島郡二丈町生、福岡市東林寺梅田隆全に嗣法する。
駒澤大学、九州大学印度哲学科を卒業。
福岡禅覚寺13世、 東林寺18世
昭和57年10月、總持寺独住21世。
R1.5 寺務室

雪 後始知松柏操 『圜悟語録』四 
『虚堂録』七
『禅類』十一庵居門
に、
「雪後始知松柏操 事難方見丈夫心」
(せつご はじめてしる しょうはくのみさお じ なんにして まさに あらわる じょうぶのしん)
とある。

 柏や松が緑のまま姿を変えなかったことは、冬が過ぎて雪が溶け始めてみてはじめてわかる。人間も同じで、苦労をした人は、難事にあたったとき、はじめてそのゆるぎなき心が見える。
(梅田)快光信隆(1906(明治39)~1996(平成8))
福岡県糸島郡二丈町生、福岡市東林寺梅田隆全に嗣法する。
駒澤大学、九州大学印度哲学科を卒業。
福岡禅覚寺13世、 東林寺18世
昭和57年10月、總持寺独住21世。
R1.12 事務室
月 穿潭底水無痕 「普灯録」七、雪峰上堂の語。月の光は、水の底までつき透すほど明るく、閑かなたたずまい。静寂そのもの。 (梅田)快光信隆(1906(明治39)~1996(平成8))
福岡県糸島郡二丈町生、福岡市東林寺梅田隆全に嗣法する。
駒澤大学、九州大学印度哲学科を卒業。
福岡禅覚寺13世、 東林寺18世
昭和57年10月、總持寺独住21世。
R1.10 寺務室
酒涼千樹竹花散澐雲

  ○㬢圓永春
永春
静岡市駿河区・圓福寺前住
H26.4.1~4.15 本堂
鳥語風声皆仏法 (江川)徹玄辰三(1928~)

昭和3年(1928)山梨県生まれ。
昭和28年(1953)山梨県清光寺住職、
昭和46年(1971)愛知県宝泉寺住職
昭和56年(1981)曹洞宗審議院副院長
平成8年(1996)大本山總持寺監院
平成22年(2010)大本山總持寺副貫首
平成23年(2011)4月大本山總持寺貫首
R2.5 本堂
雨竹風松皆禅説

(雨竹風松皆説禅)
雨に濡れた竹、風に揺らぐ松など、自然が禅の説法だ、の意。


 曹洞宗の開祖、道元禅師の著書「正法眼蔵」に、「無情説法」の巻があります。「無情」の「情」とは心理作用をもたない植物・鉱物を意味します。つまり「無情説法」とは、植物や鉱物のような心理作用を持たないものも宇宙秩序を説いているという意味です。「無情」こそが宇宙の真理「無常」を説いているのです。
(江川)徹玄辰三(1928~)

昭和3年(1928)山梨県生まれ。
昭和28年(1953)山梨県清光寺住職、
昭和46年(1971)愛知県宝泉寺住職
昭和56年(1981)曹洞宗審議院副院長
平成8年(1996)大本山總持寺監院に就任
平成22年(2010)副貫首を経て、23年(2011)4月貫首および曹洞宗管長に就任。

H29.6 本堂

花紅柳緑共真如
「花紅柳緑」とは、人が手を加えていない自然のままの美しさのこと。
紅い花と緑の柳ということから、春の美しい景色を言い表す言葉。

花は紅く、柳は緑という自然そのものの姿こそが悟りの境地である。
(江川)徹玄辰三(1928~)

昭和3年(1928)山梨県生まれ。
昭和28年(1953)山梨県清光寺住職、
昭和46年(1971)愛知県宝泉寺住職
昭和56年(1981)曹洞宗審議院副院長
平成8年(1996)大本山總持寺監院に就任
平成22年(2010)副貫首を経て、23年(2011)4月貫首および曹洞宗管長に就任。
H29.4 本堂
相承
(そうじょう)
 仏さまのみ教えを、師から弟子へと絶えることなく正しく受け継ぎ、さらに次の代へとそれをきちんと伝えていくことを「相承」といいます。
 正伝のみ教えが、今日まで脈々と受け継がれてきたこの有難さと、それを未来に向けて伝え続けていくことの意義の重さを、われわれは深く噛みしめたいものであります。
 「相承」の道は、「報恩」の道であるともいえましょう。
(江川)徹玄辰三(1928~)

昭和3年(1928)山梨県生まれ。
昭和28年(1953)山梨県清光寺住職、
昭和46年(1971)愛知県宝泉寺住職
昭和56年(1981)曹洞宗審議院副院長
平成8年(1996)大本山總持寺監院に就任
平成22年(2010)副貫首を経て、23年(2011)4月貫首および曹洞宗管長に就任。
H28.10 事務室

大石千世
昭和18年(1943年) 静岡県生まれ

財団法人 独立書人団審査会員・評議員
財団法人 毎日書道展審査会員
抱一会副理事長
千世の会主宰
(元)東京芸術大学美術学部講師

H29.7 事務室
平成13年の冬に、八世光禪が、大石千世先生からいただいたもの。
大石千世
昭和18年(1943年) 静岡県生まれ

財団法人 独立書人団審査会員・評議員
財団法人 毎日書道展審査会員
抱一会副理事長
千世の会主宰
(元)東京芸術大学美術学部講師

R2.3 事務室
平成29年の冬に、八世光禪が、大石千世先生からいただいたもの。 大石千世
昭和18年(1943年) 静岡県生まれ

財団法人 独立書人団審査会員・評議員
財団法人 毎日書道展審査会員
抱一会副理事長
千世の会主宰
(元)東京芸術大学美術学部講師
H30.1 寺務室
戌年の新年に因み展示。
平成30年の冬に、八世光禪が、大石千世先生からいただいたもの。 大石千世
昭和18年(1943年) 静岡県生まれ

財団法人 独立書人団審査会員・評議員
財団法人 毎日書道展審査会員
抱一会副理事長
千世の会主宰
(元)東京芸術大学美術学部講師
H31.1 寺務室
亥年の新年に因み展示
積雪楼台増壮観 近春鳥雀有和聲

晦巌迂人
山岡鉄舟の詩に
積雪楼台増壮観 近春鳥雀有和聲
(積雪の楼台 壮観を増し 近春の鳥雀 和声有り)
太田晦巌(1876~1946)臨済宗

大梅窟と号す。埼玉の人。
円覚僧堂釈宗演に参じ、法嗣となる。品川東海寺に住す。
大正14年、大徳寺において界堂。
昭和5年、円覚寺派管長に就任。
昭和10年大徳寺派第八代管長、並びに僧堂師家に就任。
昭和二十一年示寂
H27.12 本堂

(画)椎茸典座

(賛)
厭眉北鶴登如弓
烈日晒苔意気雄
他不是吾宗悦尽
雖共乃祖学玄風
 道元禅師が宋(中国)の天童山で修行中の話。
 仏殿(本尊さまを安置する堂)の前で一人の老僧が苔(たい。椎茸とする説や海藻とする説あり)を日に干していました。熱い陽ざしの下で笠もかぶらずきのこを並べているのがいかにも苦しそうです。老僧の背は弓のように曲がり、眉は鶴の羽のように白い。道元がその方に近づいて、おいくつでございましょうか、そう質問しますと「68歳」という。道元が「なぜ行者(修行僧)や下働きの人を使わないのですか」と聞くと、老僧は「他は是れ吾にあらず」(自分が修行せずに他の人にしてもらったのでは、自分のしたことにならない)と答えます。道元は「その通りでありましょう。しかし、もう少し涼しくなってからなされてはいかがでしょうか」と彼をいたわると、彼の老僧は「更に何れの時をか待たん」(いまやらずに、いつするのだ)との、老いた僧のするどい答えに、若い道元禅師は深い感銘を受けたのです。
 この場面を描いたもの。
丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H27.8 本堂
(画)初転法輪

(賛)
宿願受生清海辺
幼齢薙髪月光嶺
廬山求道伝心印
比島従軍觸瘴煙
戦後尤嗟先公徳
機前深慮潤荒田
鳳林陞座花開處
髣髴西天鹿苑仙
丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H25.11.1~11.15 本堂
禅園曽植一株松
銕幹蟠根翠蓋濃
捲起風雲東海岸
雄姿髣髴上天龍

賀賢明禅人○版於高岳精舎

昭和八年十月念日 西堂修禅球学

昭和八年(1933)10月、6世賢明和尚が、大井川・高岳寺において首座をつとめた時に、当時の修禅寺住職・丘球学老師よりいただいたもの。
丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H30.1 本堂
撃竹一声亡○見
那辺清韻徹○身

「香厳撃竹」(きょうげんげきちく)の話
(唐の香厳智閑が、道を掃除していたとき、突然飛んだ瓦礫(小石)が竹を撃った音を聞き、たちまち悟ったという故事)がモチーフか。

丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H29.8 本堂

「拈一茎菜 作丈六身」

一茎菜を拈じて丈六身となす
(いっきょうさいをねんじてじょうろくしんとなす)

道元禅師の著書「典座教訓」に、「拈一茎菜 作丈六金身 請丈六金身 作一茎菜」(一茎菜を拈じて、丈六の金身となし、丈六の金身を請して一茎菜となす)
とある。

丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H29.7 本堂
(年徳大善神) 丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H31.1 本堂

丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H30.8 本堂
(釈迦成道図)
12月8日にお釈迦さまがおさとりをひらいた様子をあらわしたもの。
丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
毎年12月本堂
(右から)
彩羽乗風展
鳳凰楼山瑞雲岡
朱冠映日光

昭和二十四年晩秋
丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H30.7.1~9.30 客間
(絵)地蔵菩薩

(書)為三界萬霊

昭和十一年春彼岸
鳳林寺永代供養塔の石碑を拓本にしたもの。 丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H25.8 本堂
(絵)地蔵菩薩

(書)為三界萬霊

昭和十一年春彼岸
鳳林寺永代供養塔の石碑 丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
永代供養塔正面
「落葉掃(はき)て竹尓(に) 那畔(なはん)のひびき聞く」
「香厳撃竹」(きょうげんげきちく)の話
(唐の香厳智閑が、道を掃除していたとき、突然飛んだ瓦礫(小石)が竹を撃った音を聞き、たちまち悟ったという故事)がモチーフか。

 「那畔」は「以前」を意味するが、これは香厳が師から「父母未生以前(父母のもまだ生まれる前)の一句を言え」という公案を与えられていたため。香厳には竹に小石があたって響く音が父母未生以前の一句を示す響きになったのだろう。
丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H26.8 本堂
R1.8  本堂
丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H26.11 寺務室
通宵立雪
求道忘身
達磨の弟子、 慧可が、達磨に弟子入りを請うている様子を描いていると思われる。

慧可は、嵩山の少林寺で面壁していた達磨に面会し弟子入りを請うた。達磨は断ったが慧可はあきらめず、自らの腕を切り落として弟子入りの願いが俗情や世知によるものではない事を示し、入門を許されたと伝えられている。(雪中断臂)
丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H26.12 寺務室
(左から読む)
賞観 天上 月不 夫手 中珠
丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H27.10 事務室
碓房
篩精
胆室
得衣

「碓房」とは六祖慧能の事。

五祖弘忍の後継者と有力視されていた神秀よりすぐれた詩偈を作成した慧能は、その寺で寺男として米つき小屋で働いていた。
慧能が他の修行僧からの批判を受けることを恐れた弘忍は、ひそかに慧能に後継者の証である衣と鉢を渡して寺を出した。という逸話がある。
丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
H28.6 事務室
転如是経

昭和十六辛巳初夏
修禅球学書
丘球学(1877~1953)
 明治10年愛知県岡崎市出身。14歳で出家。
 大正4年伊豆修禅寺38世住職になる。
 (この頃、鳳林寺六世賢明和尚が修禅寺で修行をしていた)
 昭和12年永平寺後堂に就任。
 昭和22年、永平寺西堂に就任、
 昭和27年、永平寺初代副貫首。
 昭和28年、修禅寺にて遷化。世寿77歳
客間 額

(賛)
艸鞋扶竹杖
行脚任東西
富岳三千丈
比○一寸低

(画)富士見西行図
(丘)大潤宗潭(1860(万延1)~1921(大正10))
 尾張(愛知県)の人。万延元年9月出生。竜泉寺桃見未徹の法嗣。
 西有穆山について「正法眼蔵」を参究し、その蘊奥を究めた。
 明治32年曹洞宗大学林学監兼教授となり、同36年第1回曹洞宗教育会議員に任ぜられた。同38年5月、森田悟由の発願によって創設された眼蔵会の第1回目講師として西有穆山の委嘱を受けて出講した。
 大正2年「室中三物秘辨」「教授戒文」「一心戒文」を校訂刊行し、同6年には永平寺監院 となり、翌年曹洞宗大学長になった。この間、美濃(岐阜県)洞雲寺・但馬(兵庫県)養源寺・伊豆(静岡県)修善寺・肥後(熊本県) 大慈寺に住し、門下からは丘球学・沢木興道・橋本恵光等の宗師家を出している。  大正10年4月、京都に紫竹林学堂安泰寺を開設する。  同10年8月17日示寂。世寿62。遺著に「曹洞宗意綱要」がある。
H27.11 本堂

(画)
達磨

(賛)
一語嘲梁帝
群臣皆熱瞞
無情鈍致僕
太怪化縁寛

菩提達磨(ぼだいだるま)は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。


10月5日の達磨忌にちなみ、展示した。
(丘)大潤宗潭(1860(万延1)~1921(大正10))
 尾張(愛知県)の人。万延元年9月出生。竜泉寺桃見未徹の法嗣。
 西有穆山について「正法眼蔵」を参究し、その蘊奥を究めた。
 明治32年曹洞宗大学林学監兼教授となり、同36年第1回曹洞宗教育会議員に任ぜられた。同38年5月、森田悟由の発願によって創設された眼蔵会の第1回目講師として西有穆山の委嘱を受けて出講した。
 大正2年「室中三物秘辨」「教授戒文」「一心戒文」を校訂刊行し、同6年には永平寺監院 となり、翌年曹洞宗大学長になった。この間、美濃(岐阜県)洞雲寺・但馬(兵庫県)養源寺・伊豆(静岡県)修善寺・肥後(熊本県) 大慈寺に住し、門下からは丘球学・沢木興道・橋本恵光等の宗師家を出している。  大正10年4月、京都に紫竹林学堂安泰寺を開設する。  同10年8月17日示寂。世寿62。遺著に「曹洞宗意綱要」がある。
H30.10 本堂
作者名 か~こ
青松骨老龍鱗動 (岸澤)眠芳惟安(1865~1955)

埼玉の人。幼名は計之助。明治15年埼玉県師範学校を卒業、小学校を訓導として勤務し、明治30年9月(32才)発心して西有穆山について得度し、ついで34年嗣法す。
また丘宗潭にも学び、正法眼蔵の参究に生涯をつくす。
明治37年埼玉県清法寺住職となり、その間、修善寺および西有寺僧堂に勤め後生を育成す。
ついで兵庫県永源寺に転住しのち京都安泰寺、青森県伝光寺等に住し、静岡県旭伝院を開創す。
洞門の師家として綿密な家風をもって知られ、13年間永平寺の眼蔵会講師をつとめ、また5年間にわたり西堂の職にあり、昭和30年3月26日示寂。世寿91才。
著書に「五位顯訣元字脚葛藤集」をはじめ正法眼蔵の中、生死・四摂法・行持・現成公案各巻の「葛藤集」と題する注解書、「宗意安心(修證義大要)」のほか「室内三物秘辨」の校訂「旭傳開山眠芳惟安和尚語録」「正法眼蔵全講」等多数ある。
H25.6.1~6.15 本堂
有田不耕倉廩虚 白楽天の勸學文に、
有田不耕倉廩虚。有書不教子孫愚」
(田ありて耕さざれば倉廩(ソウリン)虚(ムナ)し。書ありて教えざれば子孫は愚かなり。)とある。

  如何に田畑があろうとも、耕さなければ米の倉庫も穀類の倉庫も空になる。如何に蔵書があろうとも、教えてやらなければ子孫は愚かになる。
(久我)環渓密雲
(1817(文化14)~1884(明治17))
 越後の人。俗姓は細谷氏。のち久我氏の姓を嗣ぐ。
 別号を象峰、雪主という。
 12歳、近江清涼寺の寂室堅光について出家し、
のち興聖寺回天に参じ、その法を嗣いだ。
 興聖寺に住し、河内長福寺、和泉蔭涼寺、武蔵豪徳寺を経て、
 明治4(1871)年、永平寺第61世に晋住した。
 当時の洞門で化縁の盛なこと總持寺の奕堂と並び称された。
 明治17(1884)年示寂。世寿68歳。
H25.4.16~4.30 本堂
R2.4 本堂
體舒(たいじょ)
心荘體舒(しんそうたいじょ)
(心おごそかなれば体はのびのびする)
という言葉がある

(久我)環渓密雲
(1817(文化14)~1884(明治17))
 越後の人。俗姓は細谷氏。のち久我氏の姓を嗣ぐ。
 別号を象峰、雪主という。
 12歳、近江清涼寺の寂室堅光について出家し、
のち興聖寺回天に参じ、その法を嗣いだ。
 興聖寺に住し、河内長福寺、和泉蔭涼寺、武蔵豪徳寺を経て、
 明治4(1871)年、永平寺第61世に晋住した。
 当時の洞門で化縁の盛なこと總持寺の奕堂と並び称された。
 明治17(1884)年示寂。世寿68歳。
H26.5.16~5.31 本堂
大本山總持寺に秘蔵されている瑩山禅師の御真筆「總持寺中興縁起」の「当寺仏法熟霊場也。自鳴法事 聲通方外」という文から撮って拡大し、ご署名も同じ「中興縁起」の奥書からそのまま影写したものであります。
太祖常済大師瑩山紹瑾禅師(文永5年10月8日(1268年11月21日)- 正中2年8月15日(1325年9月29日))日本の鎌倉時代の曹洞宗の僧侶。 H28.11 事務室
穿雲踐浪跨乾坤
相尽宗沙千戸門
経口開時無○物
九山八海独鯨呑

明治二十一年夏
賀 禅明○士標題久住山 古知知常叟
明治21年夏、当山4世禅明和尚が、洞慶院独住2世古知知常和尚さまよりいただいたお祝いの漢詩。 古知知常(1840~1895)

洞慶院独住2世
天保11年小田原生まれ。
明治8年洞慶院独住2世、法幢を開き修行道場としての面目を新たにする。
明治26年修禅寺に移り
明治28年7月25日示寂。56歳。

H25.7.16~7.31 本堂
○○天非○月清新 ○○○○光
射○伴○○任地○笑○徳
○解譲半筵晨

賀 ○明宗匠之○衆 久住山  ○○○

古知知常(1840~1895)

洞慶院独住2世
天保11年小田原生まれ。
明治8年洞慶院独住2世、法幢を開き修行道場としての面目を新たにする。
明治26年修禅寺に移り
明治28年7月25日示寂。56歳。

H26.7.1~7.15 本堂
R1.7 庫裏
(絵)達磨 菩提達磨(ぼだいだるま)は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。

「無功徳」とは、従容録「達磨廓然」の話より。
見返りを求める善行は、本当の善行ではない、という事。

10月5日の達磨忌にちなみ、展示した。
神戸麗山
享和2年(1802)庵原郡松野村の医者好吉の長男として生まれた。
文政9年(1826)家を弟柳恭に譲り京都に上り、岸岱に師事した。
天保11年(1840)には帰郷し、有度山麗に庵を構えた。
H26.10.1~10.15本堂
(絵)雲龍 同上 H27.7.1~9.30 客間
同上 H28.1.1~3.31 客間
(般若心経) 静岡市在住の児玉三重さまが書し、鳳林寺に寄贈したもの。 児玉三重さま H27.1~3 客間
作者名 さ~そ


泰舜衲
佐藤泰舜(1890~1975)
明治23年(1890) 愛知県南設楽郡東郷村に生まれる。
大正2年(1913)勝楽寺二十八世
昭和30年(1955)長崎皓臺寺住職
昭和34年(1959)永平寺監院
昭和41年(1966)永平寺副貫首
昭和43年(1968)永平寺七十四世貫首・曹洞宗管長
昭和47年(1972)全日本仏教会会長
昭和50年(1975)2月28日遷化。世壽八十六歳。
H30.4 寺務室

永平有箇単轉句 雪裏梅花唯一枝
中下多聞多不信 上乗菩薩信無疑
永平高祖示衆之偈

遠孫興道敬書
永平廣録に
 「永平有箇単轉句
  雪裏梅花唯一枝
  中下多聞多不信
  上乗菩薩信無疑

  永平高祖示衆」

とある。
(沢木)祖門興道
(1880(明治13)~1965(昭和40))
三重の人。17歳で出家を志し、越前の永平寺に入る。
天草の宗心寺の沢木興法につき得度。
日露戦争に従軍し重傷を負う。
のち法隆寺の佐伯定胤について法相唯識を学ぶ。
熊本の大慈寺僧堂講師となり、参禅を指導。
以後、「移動叢林」とも呼ばれたように、各地で参禅
指導を努めた。
昭和10年、駒澤大学教授および總持寺後堂職に就任。
栃木県大中寺に「天暁禅苑」を開設、京都安泰寺に
「柴竹林参禅道場」を開く。
昭和38年、駒澤大学の名誉教授となり、安泰寺に退く。
通称「宿無し興道」と称され、生涯寺を持たず、参禅と
教化に勤め、昭和40(1965)示寂。世寿86歳。
H25.12.1~12.15 本堂
天東南高地西北低

獨尊道人書
寂潭俊龍(?~明治2(1870))

独尊道人と号す。
棟獄俊梁の法を嗣ぎ、天保7年、下野実相院に住し、同12年、浪華烏鶴楼に退居、
風外本孝のあとを嗣いで三河香積寺に住す。
嘉永6年、武蔵豪徳寺の巨海東流示寂のあとを嗣ぐ
文久元年、近江の清涼寺(井伊家の菩提所)25世として晋住。
明治2年示寂。世寿不詳。
H25.4.1~4..15 本堂
(画)誕生仏
染川智勇(昭和41(1966)年10月1日~)

天台宗 金剛座寺住職。
H31.4 事務室
R2.4 事務室
作者名 た~と
若無有限之心
自有無窮之福
典座教訓に
「若無有限之心。自有無窮之福。蓋是供衆住持之心術也。」
(若し有限の心無んば,自ら無窮(むきゅう)の福有らん。蓋(けだ)し是れ衆に供(ぐう)ずるは住持の心術なり。)
とある。
(鷹林)吹毛冷生
名古屋市福寿院9世、
名古屋市法持寺29世、
甲州長生寺37世、
甲州慈照寺30世、
大本山永平寺後堂より監院。
明治31(1898)年示寂。67歳。
白鳥鼎31嗣
H25.05 本堂
R02.06 本堂
信道元功徳母 養長一切諸善法 華厳経に
「信道元功徳母 養長一切諸善法」とある。

信は道の元であり、功徳の母である。一切のもろもろの善法を長養し、疑いの網を断って、まよいを出、涅槃のさとりを開かせる。
(鷹林)吹毛冷生
名古屋市福寿院9世、
名古屋市法持寺29世、
甲州長生寺37世、
甲州慈照寺30世、
大本山永平寺後堂より監院。
明治31(1898)年示寂。67歳。
白鳥鼎31嗣
H27.1.16~1.31 本堂
鶴舞千年松 亀遊万年池
鶴は舞う千年の松 亀は遊ぶ万年の池

不老長寿を願う鶴と亀、古くより伝わる縁起のいい詩。
建部快運 明治30(1897)~昭和63(1988)
明治30(1897)年 愛知県に生まれる
大正13(1924)年 高野山大学卒業
大正14(1925)年 浜松鴨江寺住職
昭和8(1933)年 高野山南院住職
昭和11(1936)年 再鴨江寺住職
昭和27(1952)年 浜松市仏教会会長
昭和43(1968)年 高野山大僧正
昭和53(1978)年 高野山宿老
昭和57(1982)年 曼荼羅集発刊
昭和63(1988)年 3月23日遷化
令和2年1月~3月客間展示
画 蘆葉達磨図

前徳願真教童 八十三齢画
落款に「勅持住秀道徳願増善東雲典外教叟」
菩提達磨(ぼだいだるま)は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。


10月5日の達磨忌にちなみ、展示した。

典外眞教

慈悲尾「慈悲山増善寺」37世 (嘉永6年(1853)~文久2年(1862)在住)
明治23年(1890)2月8日示寂
H29.10 本堂
安楽

(高祖道元禅師御真筆複製)

この色紙の文字は、花押(かき判)と共に、高祖道元禅師のご真筆で、国宝に指定され、大本山永平寺に所蔵されており、天福元年(1233)に浄書された『普勧坐禅儀』の中の語句であります。

 原文には坐禅は「唯、是れ安楽の法門なり」とあります。背筋をのばし、肩の力を抜き、きちんと坐れば、進退は安らぎを得、いろいろな思いや、はからいを離れたとき楽な気心をえることはいうまでもありません。一日のうち、ひとときでも良いから正身端坐し、息を調えて、安楽の境地をえたいものであります。
 
高祖承陽大師道元禅師(正治2年1月2日(1200年1月19日)- 建長5年8月28日(1253年9月22日))

鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の開祖。
H28.9 事務室
本来無一物 六祖慧能の偈に

菩提本無樹 菩提本(もと)樹無く
明鏡亦非台 明鏡も亦(また)台に非ず
本来無一物 本来無一物(ほんらいむいちもつ)
何處惹塵埃 何れの処にか塵埃を惹かん

(禅で言う空の世界・無の世界にはもともと菩提も無く煩悩も無く身もなく心も無く、本来無一物である。なんで塵や埃がつくことがあろうか、ましてや払ったり拭ったりすることもない)

とある。
富田哲宗

大本山總持寺単頭
山口・泰雲寺八世
H25.11 本堂
この天地の間に生かされて 富田哲宗

大本山總持寺単頭
山口・泰雲寺八世
H26.7 本堂
作者名 な~の

平常心是道
(びょうじょうしんぜどう)
(へいじょうしんこれどう)
「無門関」第19則に「平常心是道」がある。

仏さまの道は、特別な修行を必要としない。平常心とは、あれこれと取捨選択をしない、ありのままの心である。日常の生活すべてが仏道である。

青木一枝様ご寄付
(永江)大忍金栄 

静岡 永江院
静岡 可睡斉52世
静岡 石雲院独住11世


H31.4 客間
永田泰嶺 か?

黄檗宗大本山万福寺
H29.7 寺務室
真峰道入鳳山増
楢崎一光(1918~1996)

瑞応寺29世
聖護寺中興3世
R2.5 寺務室
南無観世音菩薩
(西有)穆山瑾英 (1822(文政5)~1910(明治43))
 可翁、無為庵、有安老人と号す。陸奥八戸の人。
13歳、長龍寺の金龍につき得度。
19歳、仙台松音寺天応悦音に侍す天保13(1842)年立身、
法を浅草本然寺安窓泰禅に嗣ぐ。
30歳、さらに相模海蔵寺の月潭全龍のもとで刻苦12年、ついに開悟。
駿河如来寺、相模英潮院、江戸宗参寺、桐生鳳仙寺、陸奥法光寺、
北海道中央寺、駿河可睡斎を歴任。
明治33(1900)年、西有寺の開山に請ぜらる。
明治34(1901)年、總持寺独住3世
明治35(1902)年、曹洞宗管長に就任
明治38(1905)年、總持寺を退隠。
明治43(1910)年示寂。世寿90。
直心浄国禅師。近代希有の眼蔵家といわれる。


H27.4.16~4.30 本堂

(賛)
悲體、雷震 慈意妙大雲
澍甘露法雨 滅除煩悩焔  戒

明治甲午歳
穆山浄画併書

(画)観世音菩薩像

「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」に、

悲體戒雷震 慈意妙大雲
澍甘露法雨 滅除煩悩焔


とある。


「體」と「雷」の間の脱字「戒」を最後に補っている

「明治甲午歳」は、明治27(1894)年。
 
(西有)穆山瑾英 (1822(文政5)~1910(明治43))
 可翁、無為庵、有安老人と号す。陸奥八戸の人。
13歳、長龍寺の金龍につき得度。
19歳、仙台松音寺天応悦音に侍す天保13(1842)年立身、
法を浅草本然寺安窓泰禅に嗣ぐ。
30歳、さらに相模海蔵寺の月潭全龍のもとで刻苦12年、ついに開悟。
駿河如来寺、相模英潮院、江戸宗参寺、桐生鳳仙寺、陸奥法光寺、
北海道中央寺、駿河可睡斎を歴任。
明治33(1900)年、西有寺の開山に請ぜらる。
明治34(1901)年、總持寺独住3世
明治35(1902)年、曹洞宗管長に就任
明治38(1905)年、總持寺を退隠。
明治43(1910)年示寂。世寿90。
直心浄国禅師。近代希有の眼蔵家といわれる。
H26.1.16~1.31 本堂
關 透得来

穆山書
無門関に 「頌曰。大道無門。千差有路。透得此關。乾坤獨歩」
(頌に曰く、大道無門、千差路あり。此の関を透得せば、乾坤に独歩せん。)とある。

大道に入る門は無く、到るところが道なれば、無門の関を透過して、あとは天下の一人旅

(西有)穆山瑾英 (1822(文政5)~1910(明治43))
 可翁、無為庵、有安老人と号す。陸奥八戸の人。
13歳、長龍寺の金龍につき得度。
19歳、仙台松音寺天応悦音に侍す天保13(1842)年立身、
法を浅草本然寺安窓泰禅に嗣ぐ。
30歳、さらに相模海蔵寺の月潭全龍のもとで刻苦12年、ついに開悟。
駿河如来寺、相模英潮院、江戸宗参寺、桐生鳳仙寺、陸奥法光寺、
北海道中央寺、駿河可睡斎を歴任。
明治33(1900)年、西有寺の開山に請ぜらる。
明治34(1901)年、總持寺独住3世
明治35(1902)年、曹洞宗管長に就任
明治38(1905)年、總持寺を退隠。
明治43(1910)年示寂。世寿90。
直心浄国禅師。近代希有の眼蔵家といわれる。
H26.4.16~4.30 本堂

(賛)

福寿如意

  七十八可翁

(画)宝珠
(西有)穆山瑾英 (1822(文政5)~1910(明治43))
 可翁、無為庵、有安老人と号す。陸奥八戸の人。
13歳、長龍寺の金龍につき得度。
19歳、仙台松音寺天応悦音に侍す天保13(1842)年立身、
法を浅草本然寺安窓泰禅に嗣ぐ。
30歳、さらに相模海蔵寺の月潭全龍のもとで刻苦12年、ついに開悟。
駿河如来寺、相模英潮院、江戸宗参寺、桐生鳳仙寺、陸奥法光寺、
北海道中央寺、駿河可睡斎を歴任。
明治33(1900)年、西有寺の開山に請ぜらる。
明治34(1901)年、總持寺独住3世
明治35(1902)年、曹洞宗管長に就任
明治38(1905)年、總持寺を退隠。
明治43(1910)年示寂。世寿90。
直心浄国禅師。近代希有の眼蔵家といわれる。


H26.1.1~1.15 本堂

R2.1 本堂
心含不空邊
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。




H28.6 本堂
(円相)箇中 「箇中」とは、「この中」の意味。
禅の境地は全てこの円相の中、という事か?
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H28.7 本堂
真味只是淡(しんみはただこれたんなり) 「菜根譚」に
 ジョウ肥辛甘非真味 じょうひしんかんはしんみにあらず (ジョウは酉へんに農)
 真味只是淡 しんみはただこれたんなり
 神奇卓異非至人 しんきたくいはしじんにあらず
 至人只是常 しじんはただこれじょうなり

とある。

意訳)濃い酒、脂っこい肉、辛いもの、甘いもの、このような濃い味はほんものの味ではない。ほんものの味はただ淡白なものである。
(同じように)神のように奇異で才能あふれた人が至人ではない。至人というのはごく普通の人に見えるものである。(至人=道をきわめた人)
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H26.5.1~5.15 本堂
薫風自南来 唐の時代の文宗皇帝が作った起承の二句
人皆苦炎熱  人は皆炎熱に苦しむも
我愛夏日長  我れ夏日の長きを愛す
に対して文人の柳公権が転結句として
薫風自南来  薫風南自 (より) 来たり
殿閣生微涼  殿閣微涼を生ず
とつけた。
薫風の清涼さは 単なる感覚的清涼さではなく精神的な清涼さとして、 是非、善悪・利害。得失などの相対的な考え、思想に とらわれないさばさばとした境涯であり、一切の 煩悩の垢の抜けきった無心の境地を表す語である。
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H25.5.1~5.15 本堂
無事是貴人
臨済録に、
「師示衆云。道流。切要求取真正見解。向天下横行。免被這一般精魅惑亂。無事是貴人。但莫造作。祗是平常。」
とあります。
無事とは、仏や悟り、道の完成を他に求めない心をいいます。貴人とは、貴ぶべき人、すなわち仏であり、悟りであり、安心であり、道の完成を意味します。
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H25.12.16~12.31 本堂
放下着(ほうげじゃく)  「放下(ほうげ)」とは、投げ捨てる、放り出す、捨て切るの意です。「着(じゃく)」は命令の助辞(じょじ)で、放下の意を強めるために用います。
 「放下着」、すなわち煩悩妄想はいうに及ばず、仏や悟りまでも捨て去る、すべての執着を捨て去れ、すべてを放下せよ!という意味。
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H26.6 本堂
時雨洗紅葉
(時雨紅葉を洗う)
紅葉が時雨にうたれ、
より一層美しく、光輝いている
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H29.11 本堂
龍 日献四海水

「諸回向清規」に
「家有壬癸神 日献四海水」
(家に壬癸の神(水神)あり 日々四海の水を献ず)とある。

火伏せのおまじないの軸と思われる。

丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H28.3 本堂
赤洒々 「洒々(しゃしゃ)」とは、はっきりして清浄なこと。まる裸の一点の汚れもないところをいいます。
 すなわち、見栄も欲も外聞も捨てて、少しも隠すところなく、人間としてありのままの素裸の状態を「赤洒々」というわけです。
 それは修行に修行を重ねて、一切を放下して、純真無垢な赤子のような実に無邪気な消息です。赤子が「オギャー」と泣き叫ぶ姿を見てください。何の欲望 も、何の野心もありません。迷悟、善悪、美醜、貧富、自他、是非、一切の分別心(あれこれとこだわる心)を離れて、文字通り天真爛漫、無念、無想、無心、 清浄無垢(しょうじょうむく)の素裸の世界です。
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H27.3.1~3.15 本堂
無礙(むげ) 妨げのないこと。何ものにもとらわれないこと 丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H27.5.1~5.15 本堂
山号額
「月光山」
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89
本堂前
寺号額
「鳳林寺」
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89
本堂内
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。


H28.6 事務室
文章筆硯既抛来(文章筆硯既に抛来す) 道元禅師「句中玄」に

久在人間無愛惜
文章筆硯既抛来
看花聞鳥風情少
一任時人笑不才

とある
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H27.9 事務室
清光何處無 嘉泰普灯録巻十二に、
「獨露乾坤 光呑萬象 普天匝地 耀古騰今 且道 是箇甚麼 良久曰 此夜一輪滿 清光何處無
(独り乾坤に露われ、光万象を呑み、普天匝地、古に耀き今に騰がる。且く道え、是れ箇のなんぞ。良久して曰く、「此の夜一輪満てり、清光いずれの処にか無からん)
とある。

この夜一輪の明月がまどかに、清浄な光りの行きわたらぬところとてない、の意。
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H30.10 寺務室

人生如朝露 丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H28.8 事務室
耕不尽
(こうふじん)
心を耕すことは限りはない
心の畑は耕せば耕すほど柔らかく肥沃になるので、どんなに耕しても完成にはならない。心はいつも耕し続けよう。
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H27.5 事務室
随縁
縁に従うこと。縁に従って物事が生ずること。
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H28.4 事務室
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。
R2.1 事務室
深山雪夜草庵中
「永平広録」に
西來祖道我東傳
釣月耕雲慕古風
世俗紅塵飛不到
深山雪夜草庵中

(西インドから中国に伝えた中国禅宗の祖師達磨の教えを、今度は自分が東方の日本に伝えることになる。
月に釣りをし雲に耕し古風を慕う(祖師方の教えを慕う)。
世俗の塵埃はここには入ってこない。
今深山の雪の夜、草庵の中でひたすら修行している。)

とある
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H28.2 事務室
梅開早春

管長永平廉芳
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H30.3 寺務室
坐忘 (ざぼう) 「坐忘」とは、身心のあることも、そのはたらきも忘れ、一切を放下して天地と一体になって生きることをいう。 丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H27.6 事務室
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H29.5 事務室
丹羽廉芳
静岡県修善寺村生まれ。 1916年静岡市の洞慶院で得度。
1930年東京帝国大学文学部卒業。
清水市の一乗寺・龍雲院の住職を歴任
1955年洞慶院住職。
1960年永平寺東京別院監院。
1976年永平寺副貫主。
1985年1月、永平寺77世貫首に就任。
1993年9月7日、遷化。享年89。

H29.6 事務室
随縁(ずいえん) 丹羽鐵山老師本葬の記念品としていただいたもの。
以下は色紙についていた解説。

随縁とは”縁に従う”という意味です。
「縁というものは日々生まれている。その縁に随(したが)うことが肝要である」と、故鐵山方丈は生前中よく話していました。

 「”天の時、地の利、人の和”この三つの要素が相重なったとき、物事は成就する。」
縁あって出会った人同士なのだから、お互いを敬い「あなたと私の思いやり」精神で接しなさいと示されました。

(後略)

丹羽鐵山

大正11年伊豆修善寺町出身。昭和11年清水・一乗寺にて丹羽廉芳に就いて得度。
昭和24年 清水・一乗寺住職
昭和60年 静岡・洞慶院住職
昭和62年 清水・龍雲院兼務住職
平成26年遷化 93才。
H27.4 事務室
暁天咲
梅一輪
丹羽鐵山

大正11年伊豆修善寺町出身。昭和11年清水・一乗寺にて丹羽廉芳に就いて得度。
昭和24年 清水・一乗寺住職
昭和60年 静岡・洞慶院住職
昭和62年 清水・龍雲院兼務住職
平成26年遷化 93才。
H31.2 寺務室

梅花無尽蔵 南宋の陸游(りくゆう)の詩に「要識梅花無尽蔵 人人襟袖帯香帰」とある 丹羽鐵山

大正11年伊豆修善寺町出身。昭和11年清水・一乗寺にて丹羽廉芳に就いて得度。
昭和24年 清水・一乗寺住職
昭和60年 静岡・洞慶院住職
昭和62年 清水・龍雲院兼務住職
平成26年遷化 93才。
R2.2 事務室
作者名 は~ほ
写真 読み方 意味・いわれなど 作者紹介 備考
和顔(わげん) 『華厳経』、『無量寿経』に「和顔愛語」という言葉がある。

常に穏やかな気持ち、笑顔で接することは、人を幸せに出来る力があるという意味。
長谷川文丈

名古屋盛屋寺住職
總持寺後堂
總持寺祖院監院

H26.9.1~9.15 本堂
松有歳(?)寒心

永平玉八十五叟
秦慧玉(明治29(1896)~昭和60(1985))

永平寺76世
H30.2 寺務室

竹密不妨流水過

永平玉八十五叟
竹密にして流水の過ぐるを妨げず 秦慧玉(明治29(1896)~昭和60(1985))

永平寺76世
H29.8 8月31日事務室
梅花新發旧千枝

永平玉八十五衲
秦慧玉(明治29(1896)~昭和60(1985))

永平寺76世
H27.2 2月28日事務室
寿山萬丈高
(じゅざん ばんじょう たかし)
寿山とは 中国の西安(昔の長安)の南に位置する終南山(南山)の事。
南山は 隠遁者や求道者が多く隠棲した場所で 堅固で不動のもの 長寿や業が長久であること象徴とされ 祝語として好んで用いられる。
その寿山が 高きこと万丈であるということから その長寿や長久の目出度さを更に強調している。
秦慧玉(明治29(1896)~昭和60(1985))

永平寺76世
H30.11 寺務室

(龍天軸)

※古いものだが印刷か?
龍天護法善神の名を記した掛け軸のことで、修行に赴く際に、修行者自身の安全や、道念増長などを祈って携帯する。一般的には「白山妙理大権現・龍天護法大善神」と二神を並列に書く。 (秦)黙道慧昭(1862(文久2)~1944(昭和19))
 百不能と雅号す、江戸の人。
 6歳品川天竜寺秦慧芳に投じ、師の兵庫長松寺転住に従い、同寺にて得度。
 曹洞宗専門本校に学び、永平寺に安居、立身し、久我環渓、長森良範に随侍。ついで可睡斎の西有穆山に参じたが、病気のため帰山。29歳、長松寺の師席を継ぎ、消失後の同寺を復興、再び可睡斎で参究。宮津の智源
寺、般若林の福昌寺に転住、般若林専門僧堂を開いて育英に務む。
 昭和8年、永平寺68世貫首に就任。
 昭和19年、東京田中寺の梅樹室にて入寂。世寿83歳。勅謚大規正信禅師。

H27.6. 事務室
只個眞金不混沙 従容録 第九則「南泉斬猫」の話に
「只箇眞金不混沙」
とある。

「混砂のような俗僧達の中にあって黄金のように光っている」
(秦)黙道慧昭(1862(文久2)~1944(昭和19))
 百不能と雅号す、江戸の人。
 6歳品川天竜寺秦慧芳に投じ、師の兵庫長松寺転住に従い、同寺にて得度。
 曹洞宗専門本校に学び、永平寺に安居、立身し、久我環渓、長森良範に随侍。ついで可睡斎の西有穆山に参じたが、病気のため帰山。29歳、長松寺の師席を継ぎ、消失後の同寺を復興、再び可睡斎で参究。宮津の智源
寺、般若林の福昌寺に転住、般若林専門僧堂を開いて育英に務む。
 昭和8年、永平寺68世貫首に就任。
 昭和19年、東京田中寺の梅樹室にて入寂。世寿83歳。勅謚大規正信禅師。

H2711 事務室
但識琴中趣那奔絃上声 「晋書・陶潜伝」に
性不解音、而蓄素琴一張、弦徽不具、
毎朋酒之會、則撫而和之、
曰「但識琴中趣、何労弦上聲」

(陶淵明の本来の性質は音楽を理解しなかったが、飾りのない琴を一張たくわえていた。その琴には弦も徽もなかった。親友と飲む集いのたびに、いつもその琴を撫でながらこれに和し、言った。「琴中の趣を知ってさえいれば、どうして弦の出す音に煩わされることがあろうか」)
とある。
(秦)黙道慧昭(1862(文久2)~1944(昭和19))
 百不能と雅号す、江戸の人。
 6歳品川天竜寺秦慧芳に投じ、師の兵庫長松寺転住に従い、同寺にて得度。
 曹洞宗専門本校に学び、永平寺に安居、立身し、久我環渓、長森良範に随侍。ついで可睡斎の西有穆山に参じたが、病気のため帰山。29歳、長松寺の師席を継ぎ、消失後の同寺を復興、再び可睡斎で参究。宮津の智源
寺、般若林の福昌寺に転住、般若林専門僧堂を開いて育英に務む。
 昭和8年、永平寺68世貫首に就任。
 昭和19年、東京田中寺の梅樹室にて入寂。世寿83歳。勅謚大規正信禅師。

R1.5 寺務室

菩提心
「修証義」に、
「菩提心を発(おこ)すというは 己(おの)れ未(いま)だ度(わた)らざる前(さき)に 一切衆生を度(わた)さんと 発願(ほつがん)し営むなり」
(菩提心とは、自分だけでなく、全ての人々が、みな共に幸せを得られるよう、願い務めることである)
とある。
原田雪渓
昭和元年(1926年)旧姓・蜂須賀雪渓。愛知県岡崎市に阿波城主・蜂須賀候の末裔として誕生。
明治大学卒業。第2次世界大戦では海軍主計官。
そのまま発心寺専門僧堂で原田雪水老師の指導のもと専一に工夫修行す。
1953年のあるとき、浜松井上義衍老師のことを聞き及び絶縁覚悟で発心寺を飛び出て、曹洞宗龍泉寺・義衍老師のもとに身を投下す。
48歳、発心寺僧堂・堂頭
50歳、発心寺専門僧堂師家
1982年ごろから、ドイツ、アメリカ、インドに接化
1998年 大本山総持寺西堂
1999年 ヴァチカンでの世界宗教者会議に曹洞宗代表として出席
2002年 ヨーロッパ国際布教総監に就任
H25.6.16~6.30 本堂
子々孫々代々昌也 大正12(1923)(癸亥)年、鳳林寺四世禅明和尚が鳳林寺にて結制を行い、その時首座和尚に記念として渡した書と思われる。(何枚か書いてうまくいったものを渡し、残ったもののうちの一枚か)

「昌」は「さかん」の意で、子々孫々代々栄えることを願って書かれたものか。
(平尾)慈山禅明(1868~1951)
国吉田・桃原寺27世
富士・碧雲寺29世
鳳林寺第4世
鳳林寺中興
H26.12 客間
(伽藍落慶式を記念し展示した)
煙霞不遮梅香 煙霞不遮梅香(えんか ばいこうを さまたげず)

梅の花は、もやや霞のために隠れてはっきりと見えないが、しかし梅のよい匂いは、煙霞にも遮られることなく香ってくる、ということ。

煙霞を様々な障害妨げであったり悩妄想にたとえれば、真に悟れば仏性輝き、煩悩妄想の霧は払われるとも解されるし、
また、人徳は何ものにも妨げられることなく顕われ出るものであるとも解される。
平尾(惠鑑)隆明
静岡市駿河区中吉田普濟寺八世
H27.2.16~2.28本堂

(画)養老の瀧

(賛)久里多め亭 先命から徒なきとめ天 老を養ふ瀧乃白糸

七十三歳 手から能をか持 (花押がわり?)


(くりためて 先命からつなぎとめて 老いを養う瀧の白糸

七十三歳 手柄の岡持)
※くりためて=たぐって巻き取る。

※「荷」を使っているので、隠居後の作と思われる


(賛)
平沢 常富(ひらさわ つねとみ、享保20年~文化10年)-

出羽国久保田藩の定府藩士で、江戸留守居。 朋誠堂喜三二(ほうせいどう きさんじ)の筆名で知られる戯作者、手柄岡持(てがらのおかもち)の狂名で知られる狂歌師でもある。通称は平角( 平格とも)、字は知足、号は愛洲。 隠居号は平荷。なお、上記のほか、青本では亀山人、笑い話本では道陀楼麻阿(どうだろう まあ)、俳号は雨後庵月成、朝東亭など多くの筆名や号を使い分ける。

(画)
高田圓洲 か?
書画辞典に「名は郷教、圓乗の子。狩野榮川院の風を能くす。享保年間の人なり」とある。

調査協力:田久 明 氏
平成30年5月1日~
      5月31日 本堂
 寿

妙心90叟
古川大航(明治4年(1871)年~昭和43年(1968))臨済宗

明治17年静岡県興津の清見寺に入り、得度
明治25年から妙心寺で修業を積み
大正6年清見寺住職となる
昭和7年臨済宗務総長
昭和12年臨済宗妙心寺派中国開教総監
昭和27年臨済宗妙心寺派第22代管長に就任
平成29年 1月 1日~
   1月31日事務室
上事於君 下交於友
內外一誠 終能長久
敬父如天 敬母如地
汝之子孫 亦復如是
上事於君 下交於友
(かみはくんにつかえ、しもはともにまじわり)
内外一誠 終能長久
(ないがいまことをひとつになせばついにちょうきゅうをよくせむ)
敬父如天 敬母如地
(けいふはてんのごとく けいぼはちのごとし) 
汝之子孫 亦復如是
(なんじのしそんまたなりてかくのごとし)

君主の為を思って忠勤に励み友人と誠意を持って付き合うように、皇帝・廷臣と庶民とが誠実に生きていれば国家は長く平和でいられるだろう。
父は天のようで母は大地のように尊いものだ。あなたの子孫もまたその繰り返しなのだから同じように尊ぶべきである。
文天祥(1236年~1283年)
中国南宋末期の軍人、政治家。
H27.10~12 客間
 寿 同上
H29.1~3 客間
作者名 ま~も
青山元不動 白雲自去来(青山もと不動。白雲自ら去来す。) 白い雲は白い雲の好きなように‥
そして山は何があっても動ずることがない。

これは
白雲は妄想や煩悩などの例えで、
雲が次から次へと湧き起こり去来しても、
山は元の姿のままそこにあるように、
人間は本来の仏性があり、
これに気づくなら煩悩や妄想の雲に
惑わされることはないとのこと。

自然のままに人に惑わされず、人の目を気にせず
心を他にとらわれることなく自分の信念を貫き
わが道を行く
(増田)鑑禅慧亮
鳳林寺開山
桃原寺26世
静岡瑞龍寺25世
円福寺開山


H25.7.1~7.15 本堂
常在其中佛祖禅
十方回聚結明縁
安居面目須如佳
潤澤鳳林大福田

大正12年、鳳林寺5世 禅明和尚の晋山にあたり、慧亮師より頂いたお祝いの漢詩。 (増田)鑑禅慧亮
鳳林寺開山
桃原寺26世
静岡瑞龍寺25世
円福寺開山
H29.5 本堂

一物無
(いちもつなし)
事物はすべて本来空(くう)であるから、執着すべきものは何一つないということ 「間宮英宗」とある。

臨済宗の僧。方広寺派管長。愛知県生。青龍窟と号する。天龍寺僧堂の峨山昌禎・円覚寺の釈宗演に参じた。昭和20年(1945)寂。
R1.5 本堂

(賛)
九年面壁
大乗別傳

(画)達磨
菩提達磨(ぼだいだるま)は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。

「無功徳」とは、従容録「達磨廓然」の話より。
見返りを求める善行は、本当の善行ではない、という事。

10月5日の達磨忌にちなみ、展示した。
(水野)大洞道戒

大洞院 独住第5世
H27.10 本堂
賓主歴然 賓主歴然(ひんじゅれきねん)
「臨済録」に出てくる言葉です。

賓とは客であり、主とは主人の事で、その区別が歴然としている。主人はあくまでも主人であり、客人はどこまでも御客様です。主体と客体との区別は何時の時代でも守るべき倫理でしょう。
しかし禅の修行に於いては「ある時は主になり、またある時は客になる。何時でも主にもなることが出来、反対に何時でも賓になる事も出来る。心の自由さであり、更に主の心もわかり、且つ又賓の心も理解出来る」
という賓主互換(ひんじゅごかん)、即ち自己主張も大切であるが、同時に相手の思いも尊重せよ。という教えです。
そこまで会得してようやく「賓主歴然」と大きい声で言えるのです。
宮崎奕保

兵庫県加西市出身。加古川市の福田寺で得度し、駒澤大学専門部卒。

1929年 福田寺住職。
1946年 永平寺単頭。
1976年 札幌市中央区の中央寺住職。
1981年 永平寺監院。
1985年 同寺副貫首。
1993年 9月永平寺第78世貫首に就任。
2008年1月5日 享年108(満106歳没)にて遷化。
H27.3 事務室

常転法輪
転法輪(法輪を転ず)とは、お釈迦さまが説法して人々の迷いを砕く様子を、戦車が進んでいって敵を破ることにたとえたもの。
お釈迦さまは今でも、様々な形をとおして、常に説法していらっしゃるのだ、という意味か。
宮崎奕保

兵庫県加西市出身。加古川市の福田寺で得度し、駒澤大学専門部卒。

1929年 福田寺住職。
1946年 永平寺単頭。
1976年 札幌市中央区の中央寺住職。
1981年 永平寺監院。
1985年 同寺副貫首。
1993年 9月永平寺第78世貫首に就任。
2008年1月5日 享年108(満106歳没)にて遷化。
H29.11 事務室
「承陽」 「承陽」は、曹洞宗の開祖道元禅師の諡号。
9月22日(旧暦 建長5年8月28日)にちなんで。
宮崎奕保

兵庫県加西市出身。加古川市の福田寺で得度し、駒澤大学専門部卒。

1929年 福田寺住職。
1946年 永平寺単頭。
1976年 札幌市中央区の中央寺住職。
1981年 永平寺監院。
1985年 同寺副貫首。
1993年 9月永平寺第78世貫首に就任。
2008年1月5日 享年108(満106歳没)にて遷化。

H30.9 寺務室

松風巌下夢猶穏 (諸嶽)栴崖奕堂(1805(文化2)~1879(明治12))
 尾張の人。俗姓は平野氏、のち諸嶽氏に改める。
 別号を無似子、三界無頼という。
 14才、尾張聖応寺雪堂暁林に就いて出家。 のち出遊して、越後黄竜寺道契、美濃全昌寺洞門、浪花鳥鵲楼風外に歴参したが、のち暁林のもとに帰り、その法を嗣いだ。
 弘化2年(1845)上野竜海院に住し、加賀天得院を経て、能登總持寺(独住第1世)に晋住した。
 明治12年(1879)、巡錫中の羽前善宝寺に示寂。世寿75才。
 著書に「懶眠余稿」がある
H26.2.16~2.28 本堂
R1.11 本堂
無眼道光覆没縁
大機○轉劫空前
栴崖萬仭○哨月
澄○成亀任錯傳


諸嶽奕堂
(諸嶽)栴崖奕堂(1805(文化2)~1879(明治12))
 尾張の人。俗姓は平野氏、のち諸嶽氏に改める。
 別号を無似子、三界無頼という。
 14才、尾張聖応寺雪堂暁林に就いて出家。 のち出遊して、越後黄竜寺道契、美濃全昌寺洞門、浪花鳥鵲楼風外に歴参したが、のち暁林のもとに帰り、その法を嗣いだ。
 弘化2年(1845)上野竜海院に住し、加賀天得院を経て、能登總持寺(独住第1世)に晋住した。
 明治12年(1879)、巡錫中の羽前善宝寺に示寂。世寿75才。
 著書に「懶眠余稿」がある

H26.10.15~10.30 本堂
R1.10 本堂
作者名 や~よ わ

賛 水急不流月

画 富士見西行図
水急不流月「みずきゅうにしてつきをながさず」

急流に映る月影は流れ去ることはない。あわただしい日常にありながら、変わらぬ真理の姿をあらわしたもの。
柳家小さん(5代目)(1915年1月2日 - 2002年5月16日)

 長野県長野市出身の落語家、剣道家。本名は小林 盛夫(こばやし もりお)
1995年、落語家として初の人間国宝に認定された。
H29.10 事務室
修徳立身 渡辺玄宗(1869~1963)
1869年(明治2年)新潟県三島郡日吉村鳥越(現、長岡市)の農家青柳家の次男に生まれる。
1892年(明治25年)長野県佐久市泉龍寺の渡邊俊龍に就いて得度。
1902年(明治35年)富山県報恩寺住職 富山市光厳寺住職
1927年(昭和2年)大乗寺に入って復興させ、永平寺副監院、同後堂を歴任。
1935年(昭和10年) 興禅寺 (横浜市)開山
1943年(昭和18年)總持寺西堂
1944年(昭和19年) 總持寺独住17世貫首
1957年(昭和32年)總持寺祖院に移る。
1963年(昭和38年)總持寺祖院にて遷化。
H30.12 寺務室

その他
(涅槃図) 涅槃図とは、お釈迦さまが入滅(お亡くなりになる事)した時の様子を描いたものです。
お釈迦さまが入滅されたことを「涅槃に入る」ということから、この絵を涅槃図といいます。
曹洞宗の多くの寺院では、お釈迦さまが入滅したとされる2月15日に合わせて涅槃図を飾り、お釈迦さまを偲ぶ法要「涅槃会」を執り行います。
毎年2月展示

(十界図)

華厳経云若人欲了知三世一切仏応観法界性一切唯心造云〃夫十界三世の諸法○本来吾心の内○具足せ○○○心○自性○き故○境界○○○○移わかはれハ取作○業因了依○苦楽○果報を感○さ○○殺生偸盗謗法の心○地獄となる慳貪邪見○○ハ餓鬼と○る愚痴耽婬○○ハ畜生とな○驕慢偏執○心○修羅となる五戒十善を行する心ハ人天の因となる独善出離の心を声聞縁覚となる智慧慈悲広大○○○菩薩と○る妙覚果満志了佛となる誠○○法ハ千差万別なれども一心をい○○一切世間中心○○生せさるかな○一念迷ふ時ハ善を転じて悪をなして苦果をうけ○一念悟る時○悪を転じて善を作して楽報○うく善悪苦楽ハ唯人の一心○依れハ吾心を○○此図を○○吾心を照らし六道の因果○厭離し佛○皈○○○○を欣求○○○
彼岸中展示
直指人心見性成仏(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ) 真理は自己の心の外にあるのではなく、自己の心のなかにこそ発見される。真理であるその自己の本性をみるならば、仏となることができる、という意。 「大乗天巌」の署名あり。 H27.9.1~9.15 本堂
(火伏一字龍) これを懐中に収めて落雷を免れたり、日照りに降雨の利益があったなど、数々の霊験により、鎮火の護符として知られてきたものです。 不明 H26.3.1~3.15 本堂
(火伏一字龍) 同上 不明 H28.11 本堂
火の用心 不明 H26.11.1~11.15本堂
明治35(1902)年、道元禅師の650年大遠忌を記念して作成されたもの。
H27.1.1~1.15 本堂
紫気南来萬象新 H28.4 本堂
竹影拂階不動塵
月穿潭底無跡水
「菜根譚」に、
「古徳伝、竹影掃階塵不動、月輪穿沼水無痕。
吾儒伝、水流任急境常静、花落雖頻意自閑。
人常持此意、以應事接物、身心何等自在。 」

(古徳伝う、「竹影、階を掃うも塵動かず。月輪、沼を穿つも水に痕なし」と。吾が  儒云う、「水流、急に任せて境常に静かなり。花、落つること頻りなりといえども意  おのづから閑なり」と。人常にこの意を持して、以って事に応じ物に接すれば、心身なんらの自在ぞ。)

とある。

昔の名僧が言っている。「竹の影が縁先を掃くが、塵は少しも動きはしない。月の光が沼の底までさしこむが、水に跡を残しはしない」と。
 わが国の儒者も言う。「水が激しく流れていても、あたりは常に静かである。花がしきりに落ちるけれども、それを眺めている心は自然にのどかになる」と。
 こんな気持ちであらゆる事に対処できれば、なんと身も心ものびのびすることであろう。
「如是庵」とあるが不明 H27.8 事務室
道元禅師弾虎之図 この図は、滋賀県大津市・青龍寺に伝わるもので、「弾虎の図」「虎はねの図」といわれている。

道元禅師が中国留学中の話。
中国の江南地方のある村で、人々を苦しめる猛虎がいた。そのため村では作物が作れず、旅人も近づけず、村は荒れ果ててしまった。たまたま道元禅師がその村を通られたとき、やはり猛虎が現れた。猛虎が道元禅師に襲いかかろうとした時、道元禅師は持っていた柱杖を虎に投げつけ、近くの岩の上に虎を避けて坐された。虎は柱杖に噛みついたかと思われたが、思いもよらず虎は逃げ去ってしまった。よく見れば道元禅師が坐したのは岩ではなく、柱杖が龍と化したその頭上であった。猛虎は二度と人々の前に現れなかった。人々は不思議に思い、このことを図に画き尊祟していたのである。

道元禅師が災難を除かれた因縁により、古来より、この図には災難よけの信仰があり信仰があり、縁起の良い図といわれている。
H27.12 事務室
龍天軸

奉請

龍天護法善神
白山妙理権現

八十六翁為雲林叟敬書
龍天護法善神の名を記した掛け軸のことで、修行に赴く際に、修行者自身の安全や、道念増長などを祈って携帯する。一般的には「白山妙理大権現・龍天護法大善神」と二神を並列に書く。
H28.1 事務室

(龍天軸)

龍天護法大善神
南無大行普賢菩薩

帰命一切三宝 慈峰太運敬書

若宮五社大明神
白山妙理大権現
龍天護法善神の名を記した掛け軸のことで、修行に赴く際に、修行者自身の安全や、道念増長などを祈って携帯する。一般的には「白山妙理大権現・龍天護法大善神」と二神を並列に書く。
H28.1 事務室
(龍天軸)
奉請

龍天護法大善神
白山妙理大権現

前大乗覚門○○書
龍天護法善神の名を記した掛け軸のことで、修行に赴く際に、修行者自身の安全や、道念増長などを祈って携帯する。一般的には「白山妙理大権現・龍天護法大善神」と二神を並列に書く。
裏に「前大乗覚門和尚」とある

加賀大乗寺39世 覚門禅師か?
(十六羅漢) H29.7~9 客間

(画)十六羅漢

(賛)
焼香禮拝
二ハ応真
空華水月
神変日新

七十一翁徳宗謹○
「徳宗」とあるが不明 H30.4~6客間
(画)不動明王  不動明王は、大日如来の使者で、人々の煩悩を断ち切るため奔走しているとされる。 H28.4~6 客間
(画)白衣観音   H28.7~9客間
(画)達磨

(書)無功徳
菩提達磨(ぼだいだるま)は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。

「無功徳」とは、従容録「達磨廓然」の話より。
見返りを求める善行は、本当の善行ではない、という事。

10月5日の達磨忌にちなみ、展示した。
H28.10 本堂
(出山釈迦如来) 6年の苦行を終えたのち、さらに真の悟りを求めて雪山を出るお釈迦さまの画。 不明 H28.12 本堂
「至聖先師像」 
画 孔子像
※軸裏に「台中孔子廟」とある H29.10~12 客間
善光寺式阿弥陀三尊像(一光三尊阿弥陀如来像) 善光寺の本尊。中央に阿弥陀如来、向かって右側に観音菩薩、左側に勢至菩薩が一つの光背の中にお立ちになっている。 H29.3 事務室
(題)
春風第一枝

(賛)
清李方膺詩
揮毫落紙墨痕新
幾點梅花最可人
願借天風吹得遠
家家門巷盡成春
甲子年三月仲伯書

(画)梅
清代の画家、李方膺(りほうよう)の詩に、
「揮毫落紙墨痕新
幾點梅花最可人
願借天風吹得遠
家家門巷盡成春」とある。

「甲子年三月」とある。昭和63年に檀家、滝田五郎氏から中国土産で頂いたので、昭和59年(1984 甲子)の作か。
「伯仲書」とある。 H30.1~3 客間
「梅村」とある H30.4 本堂
(画)雲龍
「楽竜齋」とあるが詳細不明 H30.6 本堂
R1.10~12 客間
「浄心」
永平後堂道○
H30.6 寺務室


H30.7 本堂
H30.10~12 客間
H30.12 客間
越前國志比庄吉祥山永平禅寺者  
佛法禅師道元和尚開闢之真跡而
賜  勅許紫衣之法窟日本曹洞
根起之大本山也二世懐弉及徹通
到吾先師瑩山四世正法展々支葉
聯綿其徒皆演暢宗乗権實兼行吾
又受瑩山示誨肇得永平之的意也
吾法徒太源通幻無端大徹實峯都
闢於玄門遠邇執法輪枢機諸宗服
膺者如海湧為駆鳥者若雲従嗚呼
世尊正法眼扶桑独赫々者宲
元和尚傑出之故也故児孫深甘永
平之禅味各自知法乳之恩而長應
憶祖山之栄光若教真跡於令著荒
蕪之地者不永平之児孫○菩薩子
勉焉  貞治二年八月二十八日
古佛第五之法孫峨山再礼塔焚香
謹記
※ 「○」は「ム」の下に「先」
平成27(2015)年、峨山禅師650回大遠忌の記念品として大本山總持寺からいただいたもの。
承陽殿前祖山護持塔拓本を縮小し軸装したもの。
H31.3 寺務室

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